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Channel: 河崎純 Jun Kawasaki 音楽活動の記 
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響きプロジェクト

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本日より始まる
BF.REC 響きプロジェクト勉強会の講師をします。

第1回目は本日7月11日です。


http://www.bfrec.com/pg121.html

ご案内 
事前予約制です。
開始時間:19:00〜21:00(開始10分前にはお集まりください)
募集人数:5〜8名(最低催行人数3名)
参加料金:初回2,000円/回

場所:
BF.RECオフィススタジオ
東京都中野区本町1-13-2 1F 
(丸ノ内線 中野坂上駅より徒歩4分)

お問い合わせ:
?BF.REC TEL:03-6317-3999 (9:00〜18:00まで)
お電話でも申し込みOKです



響きあう関係を築くプロジェクト

自分の好きな音楽や気になる音楽から音や言葉を聴きとり、
自分自身の言葉やカラダを使って小さなパフォーマンス作品として参加者みんなで発表します。

それは、たとえば音楽の聴き方ひとつで、あなたから見える世界は変わってくる。

つまりそれは対象を広げることであり、対象をいろいろな角度からみつめるということです。

あなたの好きな歌詞や言葉、あるいはあなたが愛せない言葉、もしくは眠っているときにあなたが見た夢の記述を、
参加者みんなでパフォーマンス作品にします。

伝え合える空間とはどのような空間か、そのための方法やプロセスはどのようなものか。
音楽を聴いたり、詩や歌詞の言葉を声にだしながら、「伝え合うこと」、コミュニケーションの意味を学んでゆきます。

人は言葉を用いて語り、書き、ときには歌にして気持ちを伝え合います。
でも誰もがストレートに「表現」できるわけではありませんし、
声高に歌うことだけが表現ではありません。
音楽との関係はここにあります。

表現しようという思いにかられたとき人は「聴く」ということを忘れます。

不安の中で人は語りすぎたり、黙りこんだりします。
表現するために、表現しないこと??
それは恐れずに、沈黙すること、待つこと、信じることのトレーニング。

そんな学びのプロセスが、不思議な演劇のような、小さな、でもどこにもないような、
パフォーマンス作品になります。

音を通じて、仕事的にも音楽的にも表現やコミュニケーションを学びたい方を広く募集します。

CD biologia【ビオロギア】 発売コンサート VOL2 7月30日(火)西荻窪 

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先月6月30日の王子の劇場にひきつづき、もう一度CDの発売記念のコンサートをすることになりました。おかげさまで、CDのほうは好評いただき、ほんとうに作ってよかったと思えました。良い音を時間をかけて丁寧に収めて下さった亀吉スタジオの上田隆志さんに改めて感謝です。ここのところ、半音の半分1/4の微分音程を含むアラブ音楽のさまざまなマカーム(旋法)を家で弾いています。トルコにも3度行き、独奏楽器として単旋律をソロでひいているのに、これまでどうしてあまり関心を持たなかったのか自分でも不思議なくらいです。


7月30日(火)

西荻窪 音や金時 

OPEN 18:30 / START 19:30 2300円

http://www2.u-netsurf.ne.jp/~otokin/

杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1
TEL: 03-5382-2020

西荻窪駅北口徒歩3分

お問い合わせ kawasaki_jun6@r7.dion.ne.jp


この夏は進行中のプロジェクトも含めいろいろです。きちんと作業日誌を備忘録として書き留めておきたいのですが、どうも日々の締めくくりは疲れはてているか、酔いつかれているかで、、。


7月の19〜21は明大前のキッドアイラックホールで舞踏の小林嵯峨さんの公演の音楽。20代の頃は随分舞踏の公演に関わってきましたが、最近はあまり積極的ではありませんでした。あらためて考えてみると、踊りと言葉の関係が私には理解できなかったからかも知れません。というより、土方巽や大野一雄の言葉、言語感覚は引力が強すぎて、音楽家である私がその魔術のような言語に惹き寄せられてはいけない、というような気がはたらいていたのかもしれません。言葉からはなれたくて音楽をはじめ、踊りとの共演に満足していた私が、ふと、そこに言語の支配を強く感じてしまったのです、しかも土方巽のような超ハイパー言語。今回は、土方巽の振り付けで踊っていた小林嵯峨さんからの依頼。自分なりにいま舞踏という表現に向き合いなおす機会であるとも思いました。この春お話をいただいたとき、まずはじめに個人的に行った作業ははインターネットの芥正彦さんのホームページにのっていた、芥さんと土方さん、山口昌男さんなどの対談を朗読してみることでした。音声の強度。声の舞踏。嵯峨さんの稽古場でも何度かリハーサル。陳腐な言い方になってしまいますが、不思議な嵯峨ワールドです!昨日稽古の様子をあらためてビデオでもみさせていただき、驚きでした。幽霊。ベルメール。とらえどころがない。とらえてはいけないのかも知れません。この答えのでない感じが、恐ろしくも心地よくもあります。

(公演情報)

http://blog.livedoor.jp/kidailack-schedule/
http://kobayashi-saga.sub.jp/text.html


踊りといえば、この2月までトルコのコレオグラファーアイディン・テキャルさんとの「db-ll-bass」は、新たなユニット「khkhs」として、展開を模索しはじめました。冬頃には新作を発表できる予定です。現在、芥川龍之介版「桃太郎」をテクストに旧知の国広和毅さん、プロデューサー、舞台監督、照明家とアイデアを出し合いながら作品をつくっています。これは、実はアイディンさんとの作品をつくりはじめる前に私が勝手に思い浮かべていたシアターミュージック作品にかなり近いかもしれません。だいぶシアトリカルな要素が増えそうです。

芥川といえば、偶然、ある芸能プロダクションの音楽劇公演の音楽監督を依頼され、芥川の「袈裟と盛遠」という作品(戯曲では菊池寛「袈裟の良人」)映画として衣笠貞之助監督の「地獄門」、それからフランスのロダン、カミュ・クローデル作成の地獄門をモチーフにした作品、背景を重ね合わせてゆく。演奏家の方はすでに決定していましたので、メゾソプラノ、邦楽器など。9月5日渋谷伝承ホールにて。急な依頼ですべて新曲をつくることは難しいので、役者の方々が歌う歌を中心に作曲。あとは、既存曲を組み合わせて。まずは、最近はほとんど縁のない、フランス近代歌曲をやまほど聴いて、公演の内容にあう言葉や曲をみつけてゆく作業。作曲は台本があがらないのでまだ。でもひさしぶりに歌をたくさん作曲することになりそうで楽しみです。

台本といえば。今期の立教大学文芸思想学科の演習発表は、ブレヒトの前期と後期の詩を構成して、台本をつくり演出している「ブレヒトオラトリオ」を7月16日、授業内で発表。9月16日は、有志でブラッシュアップして王子の劇場で課外発表。これで3期目ですが、毎回作り方を変えています。今回は朗読あり、歌あり、身体パフォーマンスありの発表。毎回学生のポテンシャルの高さに驚きます。文芸思想学科という創作も重視する学科だからでしょうか。毎週パフォーマンスの稽古としては短い90分という、時間。短い時間で伝えることを、おかげさまでだいぶ鍛えられた気がします。授業内発表は来週の16日火曜15時半頃から。会場はいつも授業でつかっている池袋キャンパス11号館101という教室で、なんと模擬法廷室です。基本的に完全にオープンではないので、もしご興味ある方は私の方にご一報いただければ。私には学生たちが、愛すべき無意識の「喜劇役者」にみえてなりません。

ブレヒトといえば、ブレヒト/ロルカプロジェクト。9月30日の総集編(王子 PIT北/区域)。8月19日の#5(音や金時)に向けて、着々準備。近日WEBが公開されます!言葉のないブレヒト、歌のないロルカ。

7月30日 ソロコントラバスCD【ビオロギア】発売コンサートのおしらせ 舞踏公演「短夜」を終えて

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 3日間の舞踏公演の音楽終了いたしました。舞踏との共演はかつて、特に20代の頃は何度もさせていただきましたが、舞踏を巡る言説や、伝説とは距離をとることが、いつのまにか私のスタンスになっていました。元来私にはひじょうに魅力的で「近しい世界」のように感じていましたし、それゆえ逆に安易に近づくことが危険だと思っていたからです。また、舞踏とのセッションは、即興的なものも多かったので、当時のわたしの状態では、それらの身体やことばを即時に感受することは難しかったですし、また感受するだけで捉えきれず流されていくようでもありました。「舞踏」に対する逆説的な想いは、「即興」というものに対する考え方ともとても同機していました。以来わたしが主に取り組んできたことは、「即興」という生の創造性の場を可能にするための仕組みや、システム、コミュニケーションについてでした。ですから、たとえば作曲という行為もそういうためにしてきましたし、ワークショップや教育の現場等ででグループを組織したり、コミュニティの機能の実験も同様です。ですから、純粋な即興演奏や、ダンスとの共演はとても大事なので、頂いた機会は大切にしてきましたが、私自らそのような場を企画する事は、思えば10年ほど基本的にありませんでした。

 今回の公演のお話をいただいて以来、個人的には随分前から心の準備をして、そういう私と舞踏との関係をもう一度自ら見つめなおしてみよう、という気負いのような状態からスタート。舞踏が生まれた当時からの最前衛にいらした小林嵯峨さんとの作業はその絶好の機会であると思いました。しかし公演中日のトークショー「遺言」で、嵯峨さんが、発言者の方が土方巽と東北についておはなししていたとき、他の同輩、かつての土方門下の高名な舞踏家の方々の例も挙げながら「でも、わたしは、わたしたちは別に東北ではなく、私は三重県です」ときっぱりおっしゃっていました。そしてダンサーになられる前、三重のご実家の凋落してしまった味噌づくり家屋での、日常の聴覚などの感覚的体験。舞踏というものの蓄積そのものでありながら、大言も多言もなく、大酒も飲まず、軽やかな身振り、さりげないユーモア。トークをきいて、残すところ3回の公演を前に、「舞踏」という言葉やそれを巡り、言い当てるような言語を用いてひとくくりにしてしまうのではない、リアルな現実の強度というものをあらためて認識させられました。もちろんそれは「舞踏」という言葉ではなく「小林嵯峨の踊り」との作業であること。そしてなによりも「幽霊」と「ベルメール」という嵯峨さんの長年のテーマそのものへの接近。

 舞台上では、全身、目、眼。眼で聴き、耳で視て。なので、一公演おわるごとに本当にどっぷりと疲労しました。楽器を弾かない無音の15分、音楽はほとんど「ふつうの」楽音を用いない即興の「幽霊」パート。幕間のソロ。オリジナルや、バッハ、アラブのマカーム(rast やsaba)での即興、ドビュッシーのフルート曲syrinx、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンの聖歌、西田佐知子、それらをいつもとはまったく違う弾き方で弾いた「ベルメール」パート。そしてアンコール!ショーダンス風の「コーヒールンバ」。

 即興演奏家としてははずかしいことではありますが、特に無音と即興の部分はほんとうに身体がどっぷり疲れました。最近は、ソロのCD発売のコンサートや、パフォーマンスの構成や演出、演劇の音楽監督などがつづいているので、特に演奏という事に関しては、自分の生理や認識している情報、頭の中で考えられる範囲のことに忠実なあまり、いつのまにか自分の枠というものを超えようとはしていなかったからかも知れません。反省!嵯峨さんやスタッフの皆様、お客さんのつくりだす磁場で、自分一人ではとても立ち入ることのできないコントロールぎりぎりの音と身体の限界領域の場に「存在」することができました。そしてその存在はこの公演の大きなテーマである「非在」たりえたのか。

 千秋楽の翌日は、トルコの振付家アイディンさんとの「db-ll-bass」の続編、ニュープロジェクでの稽古。芥川版「桃太郎」。言葉がはいってきた。夜はダンスワークショップのゲストで4人のダンサーのかたとそれぞれクリエーション。本日は立教大学の課外発表の台本構成。音楽劇の歌の作曲。明日は「ブレヒト/ロルカ」プロジェクトのリハーサル。明後日は即興演奏の本番、そして日曜日は毎月の石橋幸さんロシアアウトカーストの唄、ロシア語の歌。そういえばこのブログの自己紹介のところに「音、身体、ことばの諸関係を模索」などと、つまらないことを自分で書いてあったのを思い出したけれど、そのとおりといえばそのとりだなぁ。

こんな日々のなかでの7月30日ソロコンサート。ちゃんと演奏しなくっちゃ!!ぜひお誘い合わせのうえお越し下さい。

ソロコントラバスCD biologia【ビオロギア】 発売コンサート VOL2 7月30日(火)西荻窪 音や金時

7月30日(火)

西荻窪 音や金時 

OPEN 18:30 / START 19:30 2300円

http://www2.u-netsurf.ne.jp/~otokin/

杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1
TEL: 03-5382-2020

西荻窪駅北口徒歩3分

お問い合わせ kawasaki_jun6@r7.dion.ne.jp


「歌作り」と8月19日ブレヒトロルカ#5

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ブレヒトとロルカ #5

2013.8.19 mon. 西荻窪 音や金時
open 18:30 start 19:30 charge 2,600円

http://brechtlorca.com/home.html



 ここ最近はずっと歌の作曲。ある芸能プロダクションの創作音楽劇のためのものと、いつもの立教大学の演習の課外発表のため。両方とも9月が本番。ソロコントラバスのコンサートや舞踏公演のなかで、まったく異なる時間。ついに、はじめてパソコンのフリーの楽譜作成ソフトをつかいました。音も出るので稽古の効率がだいぶよくなるはずです。別にこだわりがあって使わなかったわけではないのです。パソコンを上手く使えないのでなんとなく使わなかっただけのですが、こういうものを使っていたらもっといろいろな可能性があったなぁ、と思いました。違う道具を使ったり、普段とは違う状況にいるときには、自分の事がよくわかりますね。意外と 〜な性格だったのだなぁ、とか、、。

 言葉の世界はしばらくいいかな、歌や演劇の音楽ではなく、器楽をやってみたいなぁと感じはじめたときに時に、舞台の音楽劇のお話をいただいたり、ソロコントラバスの演奏はしばらくいいかな、アンサンブルをやりたいな、と思っていたときにソロCDの制作のお話を頂いたり、コラボレーションではなく純粋に音楽がやりたいなぁ、と思った時トルコの振付家アイディンさんから身体パフォーマンスの提案があったり、ブレヒトへの想いが薄れてきたときに、ギタリストの小沢あきさんと自ら「ブレヒト/ロルカ」プロジェクトをたちあげることになったり、、、。ここ数年はそんなことが多いのです。

 今回の歌づくりもどちらの仕事も、歌詞があるうえで作曲していますので、歌詞との格闘したり遊んだりの日々。これほど濃密に極端な言葉との付き合いすることは、私の場合歌作りの時間以外にありません。昔は愛情や欲情を呼応する歌垣や、中国のある地方では歌裁判などというものがあったそうですが、人々は日々の日常の生活の中でたとえばミュージカルのように、歌でコミュニケーションすることはまずないでしょう。特に一対一の会話においては、それはとても不自然な行為であるともいえます。しかし歌が生まれる瞬間はとても自然なことである、という思いがありますから、私にとってはわざわざ時間をかけて歌を「作曲」することなんて、そもそも「不自然」なことであるという認識が前提になります。この不自然な領域。たとえば、文学、詩をたよりに人間の心情や感覚、人間像を探求したのがヨーロッパの歌曲だったり、作曲家や歌い手という個から発される伝達、メッセージ、他と差別化する個性、個性をメディアも利用しながら商品として機能させ、聴き手の共感を前提にしてきたのが20世紀の歌のあり方だったといえるのでしょう。

 音楽は鑑賞物として一人の所有物となり、一方で、マスメディアをとおして一度に大勢の人々に共有されるようになった。これはこれで、人間と音楽の関係としては自然な事かもしれませんが、私はいずれも違和感を感じてしまいます。たとえばコンサートやCD、パソコンでのネットワークより、演劇の稽古やワークショップという場での、歌や音楽の伝わり方、「共有」されかたに、私は自然な喜びを感じます。だから私にとってとても大事な仕事。たとえば歌でなくても、声などを用いてインプロヴィゼーションでアンサンブルしたりすれば、なにかいわゆる「現代音楽」のような響きがうまれ、そういう響きや現象に対し、俳優や参加者は楽しみながら受け入れることができます。しかし、そういう類の響きのCDを買ったり、コンサートへ行くなど、体験が消費活動として日常化されることはほぼない、稀なことといってでしょう。このあたり、そういう響きの音楽の作り手が、CDが売れないとか、コンサートに人がこないとか、「お客」と「商品」という関係のフレームのなかでのみ考えてしまうと、なぜ??、世の中どうなっているのだろう??という思いや恨みばかりがいつの間に根をはってしまうのではないでしょうか?もちろん、そいういう音楽が、コンサートやCDとしても受容される土壌ができれば、よりよい世の中である、とは思うのですが、、。コンサートやCDを聴いてくださる、数少ない人々は貴重なかけがえのない存在です。しかし同時に、それ以上に、演劇やパフォーマンスの稽古や、ワークショップで音楽が共有される場に、私が思う音楽の形に近いものをより感じてしまうことが多いのです。いずれにしても小さなコミュニティではあります。


 私にとっては、この不自然な行為、ことばを歌にすることの、目的や効果、どうしてわざわざ歌にする必要があるのかということを主にブレヒトとその作曲かから学びました。ですから簡単に言えば、歌作りはブレヒトソング的な客観性(歌うことによって、気づき、発見し、学び、世界を認識する)と、日本語の響きから旋律をつくる、という作業に集約されます。日本語の韻律や文法が生む音楽の形、時間。

 私は自分で詩をつくれませんし、誰かが書いた詩をメロディーやに乗せて、歌う人に託して、私自身の想い、心情をメッセージする、ということも基本的にはありませんので、背景の状況(具体的に音楽で言えばな和声の進行やドローンやオスティナートやリズム、あるいは演劇的な物語や、日常生活)のなかで、その言葉をメロディにして歌ったとき、身体になにが生じて、何を認識するのか、ということだけを想定し考えながらつくるのです。私の場合、今回のように、演劇やパフォーマンスのための作曲が多いので、いわゆる歌手以外の方が歌う事も多いです。その場合、難しくてもいけませんし、あまりにもスムーズで自然で異和を感じないものだと、歌うことで、立ち止まって考え、客観性を獲得するという効果がなくなってしまうので、そこを案配しながら作ります。


 私自身も含め一般的には、歌というものへの夢や想いがありますから、このように書くと、ずいぶんドライで、教育的?、理性的な作業のような印象を与えるかもしれませんが、実際歌作り作業はとっても楽しく、締め切りのある仕事としては、時には悶絶ものの産みの苦しみもあるものです。わたしは頭の中だけで作曲できる能力はありませんので、ピアノに向かうだけでなく、太鼓を叩きながら、いろんな楽器を弾きながら、恥ずかしいですが、実際に踊りながら、身体を動かしながら歌ってみたり、いろんな声(女声、裏声、地声、具体的な音楽ジャンルやセレモニーに固有の歌唱法)を用いて声量や変えて歌ってみたり、作業する部屋を変えたり、裏紙に歌詞を書いて外を歩きながら小声で歌ってみたり。そうしてメロディを確かめながら、いろいろな状況での可能性を試します。それは私の中で「演じる」ということの楽しさと難しさを知る時間であります。こういう作業の経験なしには、ワークショップや授業で行っている、パフォーマンスの舞台の構成や演出は出来なかったと思います。そしてその発想のベースになっているのは、時間的にも圧倒的に長い自らコントラバスを弾くことと、この楽器そのものであることは、間違いないのですが、コントラバスを弾く事では想像できていなかった状況に目一杯想像力をふくらませる。すると、コントラバスを弾いているときには認識できない発見もたくさんあるのです。例えば自らに対しても。わたしの場合コントラバスを弾いたり、こうして文章を書くとなぜかシリアスな調子になってしまいがちですが、特に歌の作曲したり、パフォーマンスの演出をしていると、そういうシリアスさとは逆の要素がたくさんでてきます。

 こういう歌作りの仕事をするきっかけになったのが、portBというユニットで公演した2003年の『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における 10月1日/2日の約1時間20分』という作品でした。ブレヒトの「家庭用説教集」という詩集からつくった舞台です。今年、10年ぶりに同じ「家庭用説教集」から台本を構成して立教大学の演習発表でチャレンジしています。10年経ってなにか変わったかなぁ。そしてこの公演の後、演出家の大岡淳さんや、今井尋也さんやたくさんの演劇やパフォーマンスやワークショップで音楽や歌を作るようになり、いつのまに自分でも舞台を構成したり演出したりするようになっていました。

 こうやってずいぶん歌をつくってきました。逆に、演奏家として、ずっと続けている国広和毅さんとの「ダた」、20代はマリア観音というバンド、石橋幸さんロシア語でアウトカーストの歌、声楽家と自作や歌曲でのコラボレーション、ヴォーカリスト柴田暦さんとの歌とコントラバスのユニット「ユニマルカ」、昨年亡くなった時々自動の今井次郎さんが作ったたくさんの歌、たくさんの個性的なシンガーソングライターの歌、ジャズや南米音楽のスタンダード、インプロヴァイザーの即興ヴォーカリゼーション。演劇等の舞台音楽。ずいぶん演奏家という立場でもいろいろな歌と共演し、伴奏してきました。今日は古澤さん、インセクトタブー!

 わたしの妻は俳優ですが、たまに舞台で歌を歌うことがあります。はずかしいですが、別に舞台や仕事でということではなく、妻が歌う歌を作ってみたいともいつも思っています。いつも頭の中でそう思っているのですが、作ろうとすると難しい。それこそ、「わざわざ」つくるものではないのかもしれませんね。ふわっと生まれてくるものなのかな、あはは。

 そして、言葉のない!ブレヒト、歌のない!ロルカ。

「ブレヒト/ロルカ」シリーズ#5は8月19日西荻窪「音や金時」。劇場公演は9月30日王子「PIT北/区域」です。

 ブレヒトの作曲家、ハンス・アイスラーが自ら歌っている音源をはじめて聴いた時、イメージとあまりに違ってびっくりしました。たぶん、舞台稽古で、俳優に歌を伝えるときの様子ではないかと思うのですがものすごいざらざらの「しわがれ声」でシャウトしたり囁くように歌ったり。強烈。それにしても音楽劇の公演の稽古で、はじめてみなさんに歌を説明するときは、何度経験しても、少し緊張します。弾けないピアノを弾いて、少しずつ歌を歌い覚えてもらいながら。今回からはパソコンのソフトをもちいたので、その負担は軽減されました!!でもだんだん俳優が歌を覚えて元気よい合唱になったり、みんなの歌によって新しいアイデアがその場で生まれたり、バラードがしっとりしてくると、ついピアノを弾いたり、コントラバスを弾いてしまうものです。芸能プロダクション(9月5日 渋谷 伝承ホール)と、文学部の学生(この演習に集まる学生はみんな普通に就職するのがもったいないくらい!)による「ブレヒトオラトリオ」(9月16日 王子 pit北/区域)。まったく異なるタイプの公演ですが、どちらも楽しみ。夏休みの学校での夕暮れの稽古というのもいいものですね。また、改めてお知らせいたします。

まずは

8月19日と9月30日の「ブレヒト/ロルカ」シリーズ

小沢あき(ギター)河崎純(コントラバス)三行英登(映像)

ブレヒトとロルカ シリーズ#5 

2013.8.19 mon. 音や金時

open 18:30 start 19:30 charge 2,600円

音や金時

東京都杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1
tel: 03-5382-2020
西荻窪駅(JR中央線・総武線/地下鉄東西線)北口より徒歩3分


ブレヒトとロルカ 劇場版

2013.9.30 mon. pit 北/区域

open 19:00 start 19:30

料金 ¥2,700(前売)/ ¥3,000 (当日)


pit 北/区域

東京都北区王子1-13-18 B1&B2

tel: 03-3927-5482(東京バビロン 12:00–20:00)

王子駅(JR 京浜東北線)北口より徒歩2分/(東京メトロ南北線)5番出口すぐ

王子駅前駅(都電荒川線)より徒歩4分


照明・舞台監督:加古貴之(風鈴堂)
企画:風鈴堂
協力:東京バビロン

関西ツアーほか 

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こんにちは。8月ももう終盤。なんとか夏を乗り越えることが出来そうかしら、、。


9月5日は、音楽監督を担当した音楽劇「地獄門」、16日は、演出、音楽担当した立教大学の生徒有志の発表「ブレヒトオラトリオ」、30日は「ブレヒト/ロルカ ことばのないブレヒト、歌のないロルカ」の劇場版公演。9月にはこれまで、時間をかけてつくってきた公演がいろいろあります。

 ほかにも、ダたの国広和毅さんが音楽を担当するインド大使館でのイヴェント、先日はじめてインプロヴィゼーションで共演させていただいた山本達久さん、初共演になるジム・オルークさんとのトリオが1日下北沢Ledy Jane.

 楽しみです!また、26日ソロコンサートの依頼でしたが、ソロは少しお休みと思い、自分で企画した、ヴォイスの徳久ウィリアムさん、ダンスの木村由さん、コントラバスの服部将典さんとのカルテットが西荻窪音や金時で。

 さて、その前に小さな関西ツアーです。今年duoインプロヴィゼーションでCDを出した、コルネットの金子さんと、以前、詩人の小池昌代さんとの共演でもお世話になった「Poetry Boat」という企画のプロデュースで関西の詩人の方たちと共演してきます。こういう感じのツアーは久しぶりだなぁ。

 そして27日は、大阪での演奏の前に、昨年末逝去された日本舞踊の西川千麗さんの、京都周山(細野)の「千麗舞山荘」を尋ねることに。山深き山荘は、小さな体育館ほどの広さ。ここでは、千麗さんの作品作りや稽古のために何度か滞在し、千麗舞わない夕べ、として照明と音楽でミヒャエル・エンデの「モモ」を創作、公演もしました。私はその公演のために「円形劇場、または広場にて」という曲(メゾソプラノ、トランペット、打楽器、コントラバス)を作曲しました。きっと、今春の新作公演「或る日のルソー」の稽古のためにまた、訪れるであろうと思っていた、今は主なきこの山荘で、静かな時間をほんのひととき過ごして、故人にご挨拶し、山々の自然からエネルギーをもらおうと思ったのですが、急遽、13時よりひっそりとコントラバスの演奏をすることにしました。



Poetry Boat #17
出航日時:8月24日(土)PM5:00〜
出航場所:ベジワンフーズ
乗船券:¥2,000(1ドリンク+パン付)
出演
 細見和之(詩人・ドイツ思想)
 ミシマショウジ(パン屋・詩人)
 金子雄生(ジャズトランペット奏者)
 河崎純(コントラバス奏者)
 石塚俊幸(ギター・友情出演)
==================
丹波篠山 ベジワン
http://vegewon.exblog.jp/13140434/
篠山市河原町93-2
河原町商家群にある三角屋根の茅葺き古民家




Poetry Boat #18
出航日時:8月25日(日)PM7:00〜
出航場所:ameen’s oven
乗船券:¥2,000(1ドリンク付)
出演
 鈴木創士(フランス文学者・作家)
 金子雄生(ジャズトランペット奏者)
 河崎純(コントラバス奏者)
西宮 アミーンズオーブン
http://ameensoven.com
兵庫県西宮市若松町6-18-101/
0798-70-8485
facebook http://www.facebook.com/ameensoven




8/26(月)
Poetry Boat 番外編
『新約ビート・ジェネレーション』出版プレイベントー 詩とジャズ、路上に浮かぶ二つの月
会場:ほんやら洞
〒602-0832
京都市上京区今出川通寺町西入ル大原口町229
《TEL》075-222-1574
《MAIL》honyarado.kai@gmail.com
ー『新約ビート・ジェネレーション』出版プレイベントー
詩とジャズ、路上に浮かぶ二つの月
 1960年代に諏訪優著の名著『ビート・ジェネレーション』の出版されてから、ほぼ半世紀過ぎた2013年、社会学的な視点からビート・ジェネレーションを語る『新約ビート・ジェネレーション』が出版されます。
 その出版のプレイベントとして、インプロビゼーション即興性が、ビート精神の糧となったジャズと詩がコラボした朗読会を開催します。会場となるのは、ビートとは深い結びつきのある京都ほんやら洞。詩、音、場の最良のコラボを真夏の京都の夜で体感して下さい。

8月26日(月)7:00PM START
チャージ2000円+ワンドリングオーダー
出演:ヤリタミサコ(詩人)
   ミシマショウジ(パン屋詩人)
   北口幸太(ビート研究者)
   金子雄生(トランペット奏者)
   河崎純(コントラバス奏者)
チャージ2000円+ワンドリンクオーダー



8/27(火)13時頃より コントラバスを弾きます

京都市右京区京北町細野

tel 090-4012-3464

地図 http://senrei-nishikawa.com/tsurumikazuko_senseihe.html



8/27(火)

金子雄生/河崎純 Free Improvisation Duo「ふたつの月」大阪編
大阪 FUTURO Cafe

チャージ¥1.500+1d

http://futurolive.exblog.jp/
大阪市西区北堀江1-15-18 tomtom2 1f
tel&fax:06-6532-5830
mail:croreco@yahoo.co.jp


秋に向かって

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みなさま9月、これからのコンサートのお知らせです。ぜひ足をお運びください!30日はいよいよ劇場版「ブレヒトとロルカ」です。


 9月16日(祝) 立教大学文芸思想科演習 課外発表 公演 「ブレヒトオラトリオ」王子 PIT北/区域  
  
  入場無料 17時 19時(会場は開演30分前) http://www.h7.dion.ne.jp/~babylon/pit_0.html

  構成、演出、音楽を担当しました。今期の授業参加学生と、昨年度の学生有志の参加による、パフォーマンス公演です。朗読、パフォーマンス、歌によりブレヒトの詩「家庭用説教集」を再構成しました。2003年音楽監督をやった、PortB「ブレヒト演劇祭の1時間20分」(演出 高山明)で用いた、テクスト「家庭用説教集」を、10年経って再び取り上げてみました。合唱隊(コロス)への入隊と脱退という筋を軸に、吟遊詩人、二人のブレヒト、歌手、合唱団長が織りなす、オラトリオ。コンサート形式でおおくりします。文学部の学生による公演ですが、みなさん素敵なパフォーマーですよ!私も楽器演奏します。歌の作曲もいくつか。私の作曲したブレヒトソングもこれで15曲近くになった。
 
 9/22(日) 「ふたつの月」金子雄生/河崎純  Free Improvisation Duo 旭 編

金子雄生(cor)河崎純(contrabass)

music charge:¥2,000
グリル月
〒289-2516 千葉県旭市ロ-1339-1
総武本線旭駅より徒歩5分

先月末 POETRY BOATで関西で詩の朗読の音楽をつとめたDUOによる、二人だけの演奏です!外房です。


9月23日(祝)地球の宝もの インドのトラとゾウを守る2013 インド大使館インド文化センター

国広和毅 T M Hoffman(インド音楽) 河崎純

http://www.jtef.jp/event_130923.html

14:00〜16:00(受付 13:30より)

会場
インド大使館インド文化センター
(地下鉄九段下駅2番出口 徒歩3分)

参加費 無料
ただし、事前の予約が必要です(予約締切9/19))

後援 在日インド大使館、公益財団法人日印協会

「一風変わった朗読付きコンサート『木の神が見た夢』」国広和毅、河崎純 T M Hofmann

T M Hofmannさんはあっと驚く意外な楽器でインド伝統音楽を演奏します。河崎純さんは身体全体を駆使して激しくコントラバスを演奏します。この二人の演奏だけでも充分盛り沢山なのですが…。今回は作詞作曲家の国広和毅さんがトラ・ゾウ保護基金のために書き下ろした物語の朗読もあります。音楽家による朗読なのできっと歌や叫びを交えた音楽的な朗読になるはず。そこに先のお二人の演奏が加わって…どんなものになるのか乞うご期待!!」


国広さんが、『木の神が見た夢』という物語を書き下ろし、朗読も交えつつ。楽しみだ。私の妻は南インドのカンパニーで、象を演じていた。彼女にとってそれは特別な、とても大切な作品(私は観ていません)。だから家には象のグッズがたくさんあります。偶然のことですが、この作品に参加することは私にとっては特別の想いがあります。


9月26日(木)音や金時 西荻窪 http://www2.u-netsurf.ne.jp/~otokin/

徳久ウィリアムス(ヴォイス)木村由(ダンス)服部将典(コントラバス)河崎純(コントラバス)

18時30分開場 19時30分開演 2600円

 いつもお世話になっている音や金時からの出演依頼で、いま新しくなにかやってみるとしたら、どんなことがあるかなぁ、と考えて、メンバーをお誘いしました!木村さんとは、初めて(実は古い知り合い)。精力的に即興演奏家との公演を行っています。ダンスでこれだけの公演を、即興で行う方はは私は知りません。それを継続しているということだけでも凄いことです。早く共演という形でそのダンスを体験してみたかった。ウィリアムさんも、こうしてコンサートという形でご一緒するのははじめて。ワークショップやセッション、ソロ同士という形はあったけれど。ウィリアムさんもたくさん公演やワークショップをやっている。服部さんは、今年ひさしぶりに二回ご一緒した。どちらも力を入れて音楽をつくった、江戸糸操り人形座の「マダム・エドワルダ」と日本舞踊 故西川千麗さんの「或る日のルソー」という全く異なる二つの舞台。さぁ、なにをしよう。実はメンバーの可能性があふれすぎてなにも思いついていない。でも密かに、将来的に昨年の夏作曲した、薩摩琵琶と20絃、荒井靖水さん、荒井美帆さん演奏による「誰が歌うの? 〜 歌のない10の断章 〜」との関連も考えています。作曲している時に実はもう次のアイデアを想像していて、そのとき思い描いていたアンサンブルにとても近い。荒井さんご夫妻に、今回のメンバーを加えると、私が現在想像しうるアンサンブルの形態そのものなのです。みな世代も近い。私にとってはそれも珍しい。楽しみ!

9月30日(月) ブレヒトとロルカ  pit 北/区域 http://www.h7.dion.ne.jp/~babylon/pit_0.html

ブレヒトとロルカホームページ http://brechtlorca.com/about_brechtlorca.html

ギター 小沢あき 映像 三行英登 コントラバス 河崎純

open 19:00 start 19:30

料金 ¥2,700(前売)/ ¥3,000 (当日)

王子駅(JR 京浜東北線)北口より徒歩2分/(東京メトロ南北線)5番出口すぐ
王子駅前駅(都電荒川線)より徒歩4分

照明・舞台監督:加古貴之(風鈴堂)
企画:風鈴堂
協力:東京バビロン

これまで、コンスタントに6回公演を積み重ねてきた「ブレヒトとロルカ」いよいよ劇場版です!

言葉のないブレヒト─ 歌のないロルカ 

劇作家/詩人ベルトルト・ブレヒトとガルシア・ロルカ。ぼくたちに19世紀末のヨーロッパ生まれのブレヒトやロルカへの純粋な共感はうすい。しかし二人の人間が残したことばたちを凝視し撹拌され、肉迫し解体し再生しつづけることが必要なのだ。気がつけば、どのように生きるかではなく、どのようにくたばるか、死への想念に覆いつくされたこの世の中で、人間の、生の条件とはなにかをつきつけられてしまったわたしたちが、それをしらずに生きることのほうが、難しい。言葉のないブレヒト─歌のないロルカ。音楽と映像とで、いささか雄弁にすぎる「無言歌」を奏でてみる。

「ブレヒトとロルカ」は、ギタリストの小沢あきとコントラバス奏者の河崎純が、ともに1898 年生まれの劇作家・詩人であるドイツのベルトルト・ブレヒトと、スペインのフェデリコ・ガルシア・ロルカの創作の営みからインスパイアされたところから始まる。ブレヒトもロルカも、音楽や歌が自らの創作と深い関わりをもってきたが、そのアプローチは対称的だ。ブレヒトはその数々の演劇や詩作品において作曲家との共同作業で、アクティブに来るべき社会へコミットメントする新しい方法として、ロルカは自らスペイン古謡をピアノで編曲し、アンダルシア的霊感をさらに深く変わりゆく世界へと刻印するために。
コンサートシリーズは昨年9月の#1から回を重ね、変容しつつ今年8月19日に5回目をむかえる。#4からは、映像の三行英登が参加し、より多角的なアプローチを得る。9月30日はその第1回目の総集編として劇場公演を行う。

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 9月5日に、音楽劇「地獄門」無事に終了しました。真夏の部屋でたくさん歌や曲を作り、俳優の方々と稽古、全員初めての演奏家(わたしが音楽監督を引き受ける前にすでにメンバー決まっていました)との打ち合わせ、怒濤のスケジュールで一気に本番。本番はワンステージのみ。なんだかこの公演の終了とともに、夏も終わってしまったような気がします。この猛暑の夏は、芸能プロダクション企画のこの公演と、立教大学学生有志の課外発表公演「ブレヒトオラトリオ」のための歌作りと、演出プランをたてて稽古。暑い部屋と稽古場の往復。コントラバスだけでも重いというのに、ほかにパソコンや小さいキーボードやパーカッション類まで担いで日々電車移動。その間に、コンサートや、重い荷物を抱えての電車移動の関西ツアーもあったりして、はて、いつまでこんな生活ができるのかなぁと、ふと、途方に暮れてしまうこともしばしば。

 いろいろな価値観も出自も異なる人が、いろいろな経緯で集まり、ひとつの時間と空間ををともにする。こんなバラバラな世の中でも、簡単に「ひとつ」になってしまう。ひとつを求めれば、バラバラは最終的には許容できない。みんなで歌を歌えばだんだんと「ひとつ」になってゆく。バラバラでいながらどうやって共存、共生することができるのか。私にとってはそこが大事。でも人間は単にバラバラではやっぱり生きてゆけないものでしょう。バラバラでありながらひとつなのか、ひとつでありながらバラバラなのか、あるいは一つとバラバラが均衡を保つことなのか。そこにどう音楽や歌が在るのか。そこには、自分のエゴだって存在するし、こういう仕事は難しく、複雑で、誤解も多いけれど、一生をかけてもそういうことを実践し、実現したいのだ、ということを、歌稽古をしながらあらためて自覚した。音楽のジャンルでいえば、たとえばモダンジャズはそういう可能性を秘めたスタイルだったのだろうけれど、形骸化した。形骸化すると他を他者の存在を拒むようになる。フリーインプロヴィゼーションもそうかもしれない。純度が高くなり形式化してくると、結局他者や他の方法を許容しないようになる。演奏家や俳優、まして学生は、私が表現したい「作品」の道具ではない。私は芸術というものや、エンターテイメントというものに身を捧げているのではなく、ただ人と人とのあいだにあるものを慈しみ、みつけ、立ち上げること。それがものをつくる大きな動機だということ。ソロのコントラバスの演奏はもう少しべつで、もっと自由に人間以外のなにかとも関わりをもてる気がしています。
 
 昨日は毎月の石橋幸ライブハウスコンサート。2部がはじまる幕が開く前、楽器をチューニングしながら、ああ、これからまた人前で演奏するのか、どうして、こんな人生になったのだろう。演奏するのはやっぱり大好きですけれど、さしてそこにも、ほかにも強い望みや動機があったわけではなく、いつのまにかこんなに楽しくて、苦しい生き方を勝手に選び、流されている。そしてまた、幕が開き、かって知ったる人生の大先輩たちと遊んだ、ただ生き生きと音楽をやったと思う。この瞬間だけはどうしたって幸福だ。そのときはただ演奏しているだけだけれど。コンサートと夏の疲れがたまってぐったり。でもコンサートの後は、ギタリストの小沢さんと、9月30日ブレヒト・ロルカの舞台構成の打ち合わせ。打ち合わせのはじめは二人ともぐったりしていたけれど、途中からなんか急に、しぼりだすようにして、頭が回りはじめてきた。ふぅ。

 そういえば、駅までの道、新大久保の駅付近、職安通と大久保通りを結ぶ裏道で、人がたかっていると思ったら、ハクビシンが電柱の一番上で降りられなくて困っていました。現代の都会で生活をするということは、人はこれまで多くの人類が自覚することのなかった精神の闇を自覚し、心の病みを覚えますが、そういう無数の他者の病に囲まれながら直接関わることはない。SNSの否定的な側面を嘆いてみても、原発が止まらない日本を嘆いても、これは現代を生きる人間の、なにかの喪失を補う自然な姿でしょう。そもそも人間「本来」の姿なんてあったのだろうか?ただ現在という時が積み重なってゆくだけだ。「本来」なんて探さない方がよい。明日という未来がくる。でもやっぱり、真実、ほんとうを、喪失の在処を過去に探し求めてしまう。ほんとうを知ろうとすると、悲しくてやりきれない。互いを知らない人々が見上げる姿を見ながら、可哀想なハクビシンが与えてくれた偶然の共同体なのか、共同幻想なのか、なにか私もみなも、日々の繁忙や懊悩から逃れ、ほっと一息つけた感じと、ただ立ちすくんでいる淋しさがまじりあって、終わりゆく夏に吸い込まれてゆくような夜の路地。路地をぬければコリアンタウン。瞬間、異邦人。

 先日、初共演のジム・オルークさん、山本達久さんとのコンサートに向かう途中、ドイツから電話があった。まったく知らない方で、あとでメイルで確認し合うと、トルコ、アルメニア系のドイツ人の作曲家、ギタリストのMarc Sinanさんと、ドレスデン交響楽団(コンテンポラリー専門のオーケストラ)のプロデューサーの方からの、出演依頼でした。オーケストラと、アルメニアやアナトリア、アルタイの伝統音楽奏者、歌手、映像による新作のシアターミュージックへの作品にソリストとしての招待でした。
Marc Sinanさん(http://www.marcsinan.com)の音楽と映像もとてもよいと思った。ドレスデン交響楽団(http://www.dresdner-sinfoniker.de/flash.php)もいろいろな企画の公演をしている。こういう企画が次々に成立するのはヨーロッパのよいところ。

 ちょうど2年前、トルコの振付家アイディンさんとの初めての稽古期間を終えた帰りのイスタンブールの空港で、おぼろげに音楽を夢想してそのことをブログで書きました(http://blog.goo.ne.jp/jk50654396/e/5860ce25eb1fa47062160ecb2caf427d)。私の関心の中心であったロシア、思いもしなかったけれど縁ができたトルコ、その時の滞在で強く関心を抱いたアルメニア、コミタスという古い作曲家。アエロフロートのチェックインカウンターで、キリル文字で書かれたパスポートをもつモンゴルやアジア系の人々に囲まれたとき、これまで夢見ていた中東から南、東南アジアを経て琉球、日本を結ぶルートから一変し、北のルートが自分の中で急に浮上し、いつか、このルートが自分の創作活動で重要ななにかになるような予感がしていました。アルメニアについては、コミタスと、ロシアの詩人オシップ・マンデリシュタームの「アルメニア詩編」(鈴木正美さんに翻訳していただきました)をテクストにして、ロシアのインプロヴァイザーのセルゲイ・レートフさんをゲストに小さな公演をつくりました。しかしそれ以後は、特になにもしていませんでしたので、根拠のない予感が思わぬところで現実になったようで驚きです。ただ、ベルリンで制作し2月のベルリン、ドレスデンでの初演という急ぎなので、スケジュール的に、いろいろと気持ち的にも参加できるかまだわかりません。これだけブレヒトをやっているので、ベルリンで制作するというのも魅力的です。せっかくの仕事なので、たいせつに、よいかたちで参加できるとよいのだけれど、、。

 みなさまと、どこかでお目にかかれれば幸いです。
 

トリスタン・ベルリン・黒海・草原の道

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「 トリスタン・ホンジンガーとかかし楽団」

10.10(木) 19:30 ラ・カーニャ(下北沢) 「案山子楽団」   http://www1.ttcn.ne.jp/lacana/



 ベルリンからチェロのトリスタン・ホンジンガーさんがやってきます。私が演奏を始めたばかりの頃、19歳の頃かなぁ、やっぱり出会ったばかりの音楽家、その後ほんとうにいろいろ一緒にやってきた高橋琢哉が、これぜひ聴いて、といって地元の喫茶店でくれたカセットテープが、トリスタンさんがもっと前に日本公演したときのソロインプロヴィゼーションコンサートのライブの秘蔵カセットテープでした。名前だけは知ってる憧れの音楽家でした。

 それから15年以上もたった頃、トリスタンさんと共演することになりました。即興演奏のセッションかと思ったら、たくさん楽譜が送られてきました。トリスタン作曲の変拍子いっぱいの弦楽合奏。たいへんそうだなぁ、と思ったけれど、リハーサルであわせると、いろんな曲想、ほんとうに素敵で、楽しい曲ばかり。しかしそれからがまた、たいへん。なんと曲の順番もきめず、即興演奏をはさみながら20曲近く演奏するという。メンバーは譜面台に畳一畳ほどの楽譜をそれぞれ工夫して並べて本番。演奏後のお酒もおいしい。トリスタンさんが家に泊まって、明け方まで、結構まじめに話したりもしました。

 トリスタンさんは昔から世界中で活躍していて、風貌もおじいちゃんにみえるから、ヴァイオリンのゆり子さんとか、「トリ爺」っていったりするけれど、まだ64歳。はじめて年齢聞いたときはびっくりしました。それでも64歳。今回の全国ツアー、スケジュールをみると一ヶ月毎日のように演奏。しかも即興で。すごい!!

トリスタンはアメリカ人です。オランダでの活躍も多いので、ある時期までオランダ人かと思っていました。今はベルリンに住んでいるそうですが、以前おあいしたときは、北イタリアの田舎にすんでいたそうです。パソコンもメールも使いません。

3年ぶりの「案山子楽団」ゆり子さんともひさしぶり。美尾さん、沖縄からやってくる巳酉さんとも3年ぶり。楽しみだなぁ。

「ICPのメンバー、セシルテーラーとの共演でも知られるトリスタンが来日です!かかしは、彼のオリジナル曲を演奏するべく集まったグループで、トリスタン自身の命名です。日本では即興が有名なトリスタンだけど、オリジナル曲もすっごく魅力的。前回来日時のかかしも大好評でした。かかしはこの日一日なので、ぜひぜひ遊びに来てね!」


出演 トリスタンホンジンガー
    かかし楽団
     向島ゆり子(vln)
     美尾洋乃(vln)
     河崎純(b)
     翁長巳酉(per)


料金 前売り 3000円+1D
    当日 3500円+1D


トリスタン・ホンジンガー

1949年 ヴァーモント州生まれ。ニューイングランド音楽院などでクラシックを学ぶ。1969年 モントリオールに移り即興演奏を始める。デレク・ベイリーの音楽に触発され1974年にヨーロッパに移住。デレクの組織するCompany、ミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンクが結成したICP (Instant Composers Pool)、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、ペーター・コヴァルト、ペーター・ブロッツマンらのGlobe Unityに参加し、フリージャズとインプロヴィゼーションの交錯するヨーロッパ即興シーンの最前線で活動して来た。1970年代後半から80年代初頭はイタリアでKatie Duckの即興劇団”The Great Salt Lake Mime Troup”と共に活動していた。同時期に、Tiziana Simona, Sean Bergin, 近藤等則、Jean-Jack Avenel, Michael Vatcherたちと、自身のグループ”This That and the Other”を始めた。1988年以来セシル・テイラーのヨーロッパでのグループの常連メンバーとなっている。現在Tobias Delius Quartet、ICP、KTCなどのメンバーであり、2010年以来ベルリンを拠点に、ジャンルを問わないコラボレーション、ソロ、ワークショップなど、幅広く活動している。



「草原の道」

 去年の今頃、トルコの小さな街、黒海沿岸 シレ。



 それから、ベルリンから来たトリスタンさんのツアーがまだまだ続く中、10月半ばから、来年2月初演の新しいプロジェクトのリハーサルとミーティングのためにベルリンに行ってきます。ギタリスト、作曲家のMarc Sinanさんと、ドレスデン交響楽団の新作に、ソリストとして招待してもらいました。まだ直接お会いしたことありません。Marcさんは、ドイツ人ですが、お母さんはアルメニア系のトルコ人だそうです。「デデコルクトの書」というアナトリア地方の叙事詩的な神話を基につくるシアターミュージック作品とのこと。ドイツのECMレーベルから、DVDとCDが出ていますが、今回もその継続プロジェクトのようです。メールでいろいろとやりとりしていると、イスタンブールで知り、強く関心を抱いて、ロシアのセルゲイ・レートフさんが来日したときのコンサートでテーマにしたアルメニアの作曲家コミタス・ヴァルタベッドのプロジェクトもあるそうです。コミタスはイスタンブールでアルメニアンジェノサイドで迫害され精神を病んだまま死んでしまいます。私も今年出したソロのCDにコミタスの編曲したアルメニア民謡を録音したので、お互いびっくりしました。会うのが楽しみです。



dresden sinfoniker http://www.dresdner-sinfoniker.de/flash.php
marc sinan http://www.marcsinan.com/start.php


「デデコルクトの書」はアジア書専門の東洋文庫から出版されていたので、図書館で借りていま読んでいます。話の筋はともかく、文章のレトリックや語の装飾、倫理観が、自分が知ってる世界のものとはだいぶ違う。イスラム以前の中東、中央アジアの世界にも関心が出てきました。世界史の東西交通史には、「草原の道」「絹の道」「海の道」とあるわけですが、北のルート「草原の道」がみえてきます。やはり以前共演し、今来日中のロシアのアレクセイ・アイギさんの、お父さんはチュバシ共和国の詩人。ゲンナジイ・アイギさんです。ゲンナジイさんの詩をテクストにずいぶん作品をつくりました。友人の尾松亮さんに翻訳してもらいました。sound migrationでご一緒したサーデットさんはカザフスタン移民系のトルコ人。モンゴル、アムールを北方にそれると、シベリア。石橋幸さんのシベリア囚人の歌。前述のレートフさんとの公演では、このシベリアの地でロシアの詩人オシップ・マンデリシュタムが書いた「アルメニア詩篇」を新潟の鈴木正美さんに翻訳してもらいました。ニキータ・ミハイルコフの映画「ウルガ」。昨年イスタンブールでの休日、妻とバスで1時間ほどゆられ、初めて黒海をみました。「草原の道」は黒海からはじまります。そのときは、この草原の道というよりは、むしろロシア革命前夜の混乱で、ウクライナから黒海を渡りイスタンブールにきた歌手、道化師アレクサンドル・ベルチンスキーを思いました。ウクライナのオデッサから船に乗ったんだなぁ、と。革命の赤軍ではなく、白軍とともに。「草原の道」を思ったのは、その前年のイスタンブールからの帰路、アタチュルク空港のアエロフロートのチェックインカウンターでの、北方アジア系の人々をみたときでした。満州、朝鮮、だんだんと日本へ向かって。黒海からつながる道。沿岸の街シレから眺めた対岸が蘇ります。




「デデコルクトの書」を読むついでに、図書館でかりて、オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」や、ペルシアの詩も借りてみました。これは、立教大学の後期のパフォーマンスで、唐の詩人李賀や李商隠も参考にしようと、唐詩を眺めていたら、ルネサンス以前のヨーロッパや、日本や、アラブ、中東世界の文学などの文化はどういうものが残っているのかなぁ、と思ったからです。あらためて、ルネサンス以前、戦いに明け暮れた十字軍の時代など、いわゆる文学史上ヨーロッパの作品ってほんとうにないのですね。それに比して8世紀唐代の詩や、11、2世紀くらいのペルシアの詩はほんとうに豊かですが、それにしても夢のような「酒」の詩ばかり。立教で文芸批評の青木純一さんに話したら、日本の古典文学で「酒」がテーマになっているものはほとんどなく、その理由に明確なものはないとのことでした。おもしろいですね。

ベルリンでの仕事が良いものになるといいなぁ。帰りに、パリによってマラコフという街で、妻の舞台をみてきます。「ロミオとジュリエット」。そして滞在先のジュネーブから帰ります。ジュネーブといえば、故西川千麗さんの遺作「或る日のルソー」。ジャン・ジャック・ルソーが生まれ育った地。パリといえば、今年は江戸糸操り人形座のバタイユ「マダム・エドワルダ」と、同じくルソー。


そして、このアナトリアの神話や、コーカサス文化をベースにした作品を、ベルリンでつくる。ベルリンといえば、私にとってはずっと取り組んできたベルトルト・ブレヒト。偶然とは思いますが、いろいろつながってきます。それがいったいなんなのかは、わかりません。流されているだけです。来年は、この「デデコルクト」で、アゼルバイジャンやコーカサス、トルコ、ヨーロッパを回る予定です。

なかなかインターナショナルな感じですが、私は英語もほとんどできず、学校もフランス文学科を卒業したけれど、ぜんぜんフランス語もできません。すっかり忘れました。

ベルリン 2つのムジーククテアトル 「デデコルクト」と「桃太郎」(芥川龍之介)

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マルクさんとドレスデン交響楽団の前作の写真です


 来年2月初演の、新しいプロジェクト「デデ・コルクト」のリハーサルのためにベルリンまで行ってきました。
「デデ・コルクト」とは中東、トルコ、コーカサスに広く伝わる叙事的な説話集で、日本でも平凡社の東洋文庫から出版されています。この中の「テペギョス」という一つ目の怪物のお話をベースに作品が作られます。なんの準備もないので、とにかく図書館で借りてよみました。飛行機でもういちど第8章「テペギョス」を読み返す。勧善懲悪的な寓話性は希薄で、道徳が強調されるというよりは、異教徒などを迫害する英雄譚でしょうか。この「テペギョス」も、馬から落ち、そのまま獅子に育てられた暴れん坊、後の英雄バサトが、バサトの父に兄弟になるべく拾われた羊飼いと妖精のあいだの子、一つ目の妖怪テペギョスを退治する物語です。話のプロットや設定に理解し得ぬ矛盾点もある。翻訳という形でもはっきりとわかる文章のレトリックや、倫理観のベースが、日本のそれや、キリスト教的な西洋のそれとも明らかに異なり、楽しみで、興味深い。そこにある倫理観を私が理解し得ないのか、あるいは倫理というものを超えた何かがあるのか。とにかくベルリンに行ってみよう。

    


 ベルリンでの本番会場でもある、マクシム・ゴーリキー劇場のアトリエが稽古場で、旧東側の郊外にあった。前にもブログで紹介したマーク・シナンさんが音楽監督、ドレスデン・シンフォニカーのマルクスサんがプロデューサー、そして、この2月までイスタンブール東京を往復しながらコラボレーションしたアイディン・テキャルさんがコレオグラフということ。つまりアイディンさんのつながりで、私にこのお誘いがあったのです。

 電話で、見たことも会ったこともなかったマルクさんから突然のオファーがあってから約一月。今回は4日間のリハーサルですが、既に舞台美術は仮設され、衣装プランナーのボディチェックなど。私は、かなり初期の段階からプロジェクトに立ち会うことも多いので、こういうプロダクションへの参加の仕方はは久しぶり。しかし、内容はまだまだこれから。マークさんが作曲して稽古場にもってきた楽譜は、おもったよりも、いわゆる「現代音楽」的。アンサンブルするのが難しい。加えてドイツ語の歌詞の読み方もチェックが必要。これに、即興的要素や、オーケストラの合奏、映像によるアナトリア地方の民族音楽の演奏、折り重なって、「デデ・コルクト」ができあがってゆく予定です。これに、アイディンさんのコレオグラフする、私たち3人のソリストの音楽身体パフォーマンスやアンサンブル合奏の要素が加わってゆきます。まだ、内容の全体像など把握できていないので、あまり多くの報告はできません。12月に再び10日間ほどのリハーサル。2月に最終リハーサルして、ドレスデン、ベルリンで公演。10月はヨーロッパ、中東などをツアーします。それなりに長いプロジェクトのはじまりでした!

 ベルリンは、ホテルと稽古場の往復でしたが、ブレヒトハウスやブレヒトやハイナー・ミュラーが芸術監督をしていたベルリナーアンサンブルも見学できました。舞台の参考のために、冷たい雨の降る中を、動物園にもゆきました。象の背中に舞い落ちる枯葉が美しい。壁が崩壊して20年以上経つわけですが、郊外の風景や建物は、やはり東欧やロシアの町並みを思い出しました。


共演のみなさま

Jelena Kuljić さんは、セルビア出身の歌手、俳優。マークさんのECMのCDでも歌っていますが、ドイツの演劇シーン、シャウビューネやフォルクスビューネで、ベルクの「ヴォイツェツク」や「ルル」など、現代歌劇での活躍も多いみたいです。ロックバンドやJAZZのヴォーカルもYOUTUBEでみることができます。とんがってんなぁ。とてもサバサバとして、クリアなパフォーマーです。ベジタリアン。



 Sascha Friedl  超チャーミングでベイビーな、漫画のキャラクターみたいな、しかし物静かな巨人!そしてあつかう楽器はコントラバスフルート!!コントラバスより背が高い。しかし軽い!オペラの仕事で日本に2回くらいいったことがあるといっていました。話の設定上、私とはテペギョスと英雄バサト「(義)兄弟」のシーンが作られる予定。



Marc SIinan そして、音楽監督、このプロジェクトの内容面を司っているのが、ギタリスト、作曲家のマークさん。お母様がアルメニア系のトルコ人で、トルコ語も話します。今回はじめて直接会う前に、メイルでやりとりをしたり、お互いの映像をみたり、してきて、かなり共感しました。YOUTUBEでの難しい顔やその音楽から想像していた方とは印象がかなり異なる、ハッピー!な方でした。




Dresden symphoniker(ドレスデン交響楽団) 現代音楽を中心に演奏するオーケストラで、中近東や南米、中国などにまつわる作品、新作を演奏することや、映像を駆使する作品が多いようです。ほか、ジョン・アダムス、譚 盾、アンソニー・タネジ、フランク・ザッパやの曲。それからイギリスのテクノバンド、ペットショップボーイズとエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」の無声映画に音楽をつけたり、アクティブなオーケストラです。




マルクさんの前作のDVD。



 
 
 リハーサルが終わりパリで、妻がジュリエット役で出演している公演「ロミオとジュリエット」をみました。9月から12月までの長いツアーですが、初演だった昨年の静岡での公演に比べて、俳優の方々それぞれのアプローチが役の個性として確立している分、ずいぶん密度が濃く重層的な舞台でした。だからエンターテイメントとしてもさることながら、シェイクスピアの言葉、台詞もとても多層的にみえてきて、現代的な問題をはらんでいるようにおもえました。また、仮面劇ではないけれど、演出のオマールさんと劇団テアトロ・マランドロの、現代の「コメディア デラルテ」とは、なるほどこういうことなのかな、と思いました。素敵な舞台でした!



 帰りは、妻の主たる滞在先のジュネーブにたちよりました。ベルリンやパリのような大都市のあと、このジュネーブの街の深閑とした夜と朝を歩いたからか、自らがその土地において何者でもない異邦人である感覚を、よりつよく感じました。夕刻に到着し、夜と朝の滞在なので当たり前と言えばそれまでですが、教会も美術館も博物館も商店も、その多くは閉じられています。古い建築物にしても、近代的な高層住宅にしても開放的な印象はない。前日のパリの無国籍なマルシェやふと立ち寄った教会のアフロミサの風景との対称。ジュネーブでは大都市の雑踏や大自然のなかでおぼえる精神的な孤独でもなく、もっと物質的な孤独。旅の良いところは、この物質としての孤独を呼び戻し、様々な事物に対する瞬間の出会いが細部への感覚を研ぎすませてくれるところにある。霧深い朝、空港に向かうバスを待つ間、妻が案内してくれたので、バス停のそばの石でできた小さな塔をみた。建物と建物の間の小さな原っぱに造作なく建っていたこの塔の謂れはわからない。それが宗教的なオブジェなのかどうかも分からない。今回のベルリン、パリ、ジュネーブでの短い滞在の最後の風景が、この塔の佇まいだった。

 帰りの飛行機ではほとんど眠っていましたが、立教大学の後期のパフォーマンスの授業の台本作成の準備をと、W・G・ゼーバルトの「アウステルリッツ」を読みました。「個人」と「歴史」の過去への建築史家のフェティッシュな旅は、夢幻のごとく環を閉じることのない螺旋。「私」という現在が語られることはなく、過去と歴史が、直線的にではなく、細部が夢のように漂っている。思えば、書物も建築物も草木も楽譜も、それ自体が音を発することはない。「無言」を聴いたジュネーブでの夜と朝の余韻で、飛行機の中、アウステルリッツのヨーロッパの彷徨と回想に吸い込まれてゆきました。「アウステルリッツ」は動物園の夜行性動物を集めた館についての叙述からはじまってている。私の今回のベルリン滞在の始まりは、奇しくも到着翌朝の動物園訪問だった。肌寒い平日の午前、雨足が強まってきて、冷たい雨をさけるように入った結局屋内の霊長目の館と、その地下にある照明を落とした夜行性動物のコーナーだった。


 そして、 プリミティブオペラ khkhs「MOMOTARO」。12月2日(月)森下スタジオ



この2月までのイスタンブールと東京での、構想から数えて2年と数ヵ月を費やした、トルコの コレオグラファー、アイディンさんとのプロジェクトを終えて、新たな展開を考え、ユニットkhkhsのプロジェクトが始まりました。khkhsは参加者5人の頭文字(!)で、ククスと読みます。

「db-ll-bassは、HP(http://db-ll-base.jimdo.com/)で報告しているように、身体フォルム寄りの作品創りから音楽優位へ、そして最後にシアトリカルな要素の片りんをのぞかせるという変遷をたどりました。khkhsがやってみたいと思ったのは、このシアトリカルな部分を展開していくことでした。そして、定期的にスタジオに5人が集まってdb-ll-bassの動きを再現してみたり変形してみたりと遊んでいるうちに、意外な素材に行きつきました…桃太郎。桃から生まれた桃太郎、鬼ヶ島に攻め入って財宝を持ち帰った桃太郎。しかし、私たちがいたくそそられたのは、文豪・芥川龍之介の「桃太郎」です。実に自由で実にアナーキーで実にパンキー。これを、楽器と声と2人の身体だけのミニマルなオペラにしよう、名付けて! 
  実際に動き、演奏し、声を発するのは河崎と国広ですが、アイデアは5人で自由気ままに出し合い、いろいろ実験したり、シーンを創ってみたりしています。コントラバスと声と身体だけというシンプルさがかえってイメージを増殖させ、アナーキーな芥川版桃太郎がさらにアナーキーになっていっている感じです。」

 春から作品作りをはじめました。今回のベルリンの滞在で、偶然ふたたびアイディンさんの基礎トレーニングや、骨格についてのレクチャーを受けられたことは、きっとこの作品に良い影響をもたらすはずです。元来演奏すると勝手に身体が大きく動くので(全然意識していませんでしたが、演奏始めた頃からそうでした。だから今は、動かない、ということを意識しています。)、こうして作品を作っていると、つい自分の動きやシアトリカルなアイデアや言葉にひきずられてしまうので、この公演を前に再びアイディンさんのトレーニングをみっちり(今回の私に課せられたトピックは首と肩甲骨の骨の構造の再確認とそこからつくられる自然な動き)受けられたことは幸運でした。それに今回のベルリンでは、このメソッドにチャレンジするのは私以外はじめてなので、皆さんの動きもみながら、だいぶ客観的に理解できるようになりました。

 「デデ・コルクト」の妖怪テペギョスは、路傍に捨てられた塊を、父親や皆が不気味がって蹴飛ばしていると、そこから割れて生まれでてきた羊飼いと妖精の間に生まれた子供。桃太郎も皆さんご存知のように、このない老夫婦が川から流れてきた桃を拾い、割って出てきた子供。しかし芥川により、虚無的で理知的な美の輪廻に描かれた桃太郎は、よく知られた桃太郎のお話とはだいぶ異なり、むしろ真逆です。青空文庫にあるので、興味のある方はぜひ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html

 
 12月のこの公演が終わったら、ふたたびベルリンでのリハーサルのために渡航します。その間のライブには、長く続けてきたり、久しぶりのユニットや場所での演奏が続きます。みなさまとぜひおあいできれば。

10月26日 コルネットの金子雄生さんとの「ふたつの月」CDをレコーディングした矢切の蔵「結花」での即興演奏ライブ
10月27日 「ダた」コンサート 吉祥寺マンダラ2 
11月3日、5日  工場という空間、美術、照明を駆使した、アルゼンチンのフリオ・コルタサル「夜あおむけにされて」の朗読公演の再演 川口アートファクトリー
11月8日 原語によるロシアアウトカーストの唄 石橋幸コンサートを、愛知の、穂の国とよはし芸術劇場PLAT
11月10日 ソロコンサート 久しぶりに、つくばの千年一日珈琲 つくばでは、ひばりや、蝉や山羊に囲まれて演奏したり、幼児や老婆との共演、レンゲソウ畑、遺跡、といろいろな状況でソロの演奏をさせていただきました。
11月21日 ひさしぶりのヴォーカル、コントラバスduo  柴田暦さんとのUNI-MARCAコンサート 西荻窪音や金時
11月23日 ブレヒト/ロルカ 小沢あきさんとのduoバージョン 下北沢LEDYJANE
11月24日 石橋幸 新宿ガルガンチュア 7人限定 ロシアアウトカーストの唄 
11月27日 石橋幸 新宿URGA ライブハウスコンサート 

そして12月2日 プリミティブオペラ khkhs「MOMOTARO」! その後またベルリンでリハーサルです。


12月2日 「momotaro」 シアターミュージックについて

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この作品は、昨年秋、イスタンブールで、今年2月東京、横浜で行った、トルコの振付家アイディン・テキャルさんとの「db-ll-bass (ダブルベース)」の、
日本側のスタッフが集結し、身体と楽器の関係だけではなく、新たに言語表現や歌の要素も複合的に考え新たな作品作りをしてきました。私たちはそれを「プリミティブ・オペラ」とよぶことにしました。
 ダたというユニットで、気がつけばもう20年近く活動をともにしている国広和毅さんと、私の二人が、たった二人で、演奏はもちろん、身体や言語表現をフル稼働して、芥川龍之介「桃太郎」を解釈し、演じます。たった二人の出演によるパンキッシュなオペラ。お越しいただけると嬉しいです。



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◆12月2日(月) 
昼公演=15時 (14時30分開場)
夜公演=19時30分 (19時開場)

◆森下スタジオ(Sスタジオ)
(都営新宿線・都営大江戸線「森下駅」A6出口徒歩5分、半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A2出口徒歩10分 http://www.saison.or.jp/studio/)

◆予約2,000円/当日2,300円
◆予約お申し込み・お問い合せ=kiki.arts.project@gmail.com

◆企画・創作=khkhs
パフォーマンス:河崎純(コントラバス)+国広和毅(ボイス)
照明:畠中泰正  舞台監督:白澤吉利  制作:畠由紀

◆FB
https://www.facebook.com/events/578301672206508


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khkhs企画・創作 

primitive opera 【Momotaro】

このたび、芥川龍之介の【桃太郎】を題材に、コントラバスとボイスとカラダだけのプリミティブ・オペラ【Momotaro】を創作し、上演いたします。パフォーマーは、この2月に【db-ll-bass】でトルコのコレオグラファーとともに音楽と身体の関係を投げかけた河崎純、そして演劇的表現としての音楽を実践するボーカリストの国広和毅。芥川のアナーキーで研ぎ澄まされた言葉の世界に、音楽家は音と演奏するカラダでどう対峙するか。この異色作をぜひともご覧いただきたく、ご案内申し上げます。

芥川龍之介の≪桃太郎≫・・・・

大正13(1924)年、『サンデー毎日』に掲載。
桃から生まれた桃太郎は、ある日ふと、鬼が島の征伐を思いたつ。ただただ、お爺さんやお婆さんのように、山だの川だのに仕事に出るのがいやだったからである。極楽鳥のさえずる美しい熱帯の島で平和に暮らしていた鬼たちは、自分たちが征伐される理由もわからないまま殺戮されていく。年は経て、月明かりを浴びる島では、鬼の若者が黙々と桃太郎への復讐を準備していた…


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【パフォーマー】

◆河崎純
 コントラバス奏者。身体のすべてを使うかのような演奏スタイルは、観る者に、音楽の源泉が身体にあることを想起させる。特に、トルコのコレオグラファー、アイディン・テキャルと組んだ、自らの演奏と身体表現によるソロ作品「db-ll-bass」(2012〜13年)は、身体と音楽という問題に一石を投じた。
 ソロ演奏のほか、石橋幸(ロシア・アウトカーストの歌)、ギターの小沢あき(ブレヒトとロルカのシリーズ)などと定期的なライブを続ける。
 また、ポルトB「ブレヒト演劇祭の約1時間20分」、SPAC「大人と子供によるハムレットマシーン」、江戸糸あやつり人形座「マダム・エドワルダ」など、多くの音楽劇の音楽を担当。来年は、ドレスデン交響楽団の新作音楽劇にソリストとして招聘されている。
 ソロアルバムに「Biologia」。活動詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/jk50654396

◆国広和毅
 作詞作曲家、ボーカリスト、ギタリスト。ソロのほか、河崎純らとのバンド、民謡の木津茂理、津軽三味線の山中信人との超民謡ユニットでも活動し、ジャンルを超えた自由かつ先鋭的な音楽性で異彩を放つ。
 音楽のジャンルのみならず音楽というボーダー自体を超えた表現も実践し、この9月にはトラ・ゾウ保護基金のために書き下ろした「木の神が見た夢」と題する童話を一人5役でに朗読、独特の世界観を繰り広げた。
 舞台・映像作品の作曲と演奏でも活躍。主要作に、イラン・インド・ウズベキスタン・日本共同制作演劇作品「演じる女たち―ギリシャ悲劇からの断章」、コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」、日本トルコ共同作品「Sound Migration」ほか。演出家・田中麻衣子の主宰するThéâtre MUIBOの音楽も担当。
 HPはhttp://kunihirokazuki.com/

私自身のシアターミュージックへの思いを振り返って書いてみました。

「出口なき遊戯」を越えて 

 
20代の頃、レッスンに通い、とにかくコントラバスのことを知り、それを弾けるようにすること、いろいろと音楽活動していましたが、それが私の生活のすべてでした。ただただ楽器を弾くこと。または本番などの公演やアルバイトなどで、その時間が確保できなくなってしまったときのストレスは相当なものでした。音楽活動も生活も、将来に対するヴィジョンなんて全くありませんでした。だから「何のために音楽をしているの?」などと尋ねられても、答えることができませんでした。そろそろそういうことを考える時期だよ、と叱られたこともあります。また、自分がつくってみたいという音楽の形も何一つ具体的なことはイメージしませんでした。

 その頃聴いたCDで、ギリシア悲劇(の音楽)を想像しながら新しい解釈で再現したものを聴いたとき、具体的にこんな音のイメージの音楽がやってみたいかも、と思ったことがあります。それは、西洋音楽的なハーモニーや、世界のさまざまな音楽から聴くことができる豊かなリズムや歌謡性もなく、さながらそれらの要素をあえてすべてはぎとってしまったような、「貧しい音楽」でした。豊かなものを勉強したり、練習したり無理矢理獲得しようと躍起になっていた頃だったから、かえってその「貧しさ」のもつ強度や、音そのものの清廉さのようなものに強く惹付けられたのかもしれません。
 
 それから、当時音楽仲間の友人の関係で、時々自動というユニットの存在を知り、いわゆる職業演奏家や俳優でない人々が、そこでつくられ、発見されたシステムや方法を利用して、どこにも聴いたことがないような、音楽やパフォ−マンスをしていました。それが、グループとして運営されていたことにも興味をもちました。いわば、表現したいなにかが先立つのではなく、共同体の方法そのものが、パフォーマンスであり作品であるような印象でした。

 なにかそのような体験から、コントラバスを弾くこととは別に、もう一方のなにかを、おぼろげに模索していたのかもしれません。だから、どなたかに「あなたはどんな音楽がやりたいの?」などと訊かれたとき、「シアターミュージック」のようなものかな、となんとなく答えとことが記憶に残っています。ただ、私にとってやっぱりただただコントラバスを弾くことが生活の中心でしたから、それは頭の片隅に残しつつも、特にそのために何かするということはありませんでした。

 私にとって、そういうことを実質的に初めてやるようになったのは、20代が終わる頃、高山明さんという演出家に誘われて、「教育の家 第20号」というプロジェクトに音楽監督として参加したことです。公演もせずに、小さなアクションをおこしながら、ワークショップ的な作業を繰り返し、グループが今後どのように展開して行くのか、その運営について毎晩のように話し合いました。そしてそのプロジェクトはPORTBというユニットに名前を変え「ブレヒト演劇祭のための1時間20分」という作品をつくりました。その間の2年間ほどは、コントラバスを練習するという日常の一方で思い描いていろいろなことを、すべて具体的に実現してゆくという、初めてのの機会で、新しい日々でした。

 その後は、歌や詩というものがトピックになり、両国のシアターXという劇場で「詩の通路」なるゼミや公演を企画し、運営しました。それから演劇や舞台表現の音楽をつくるようになり、特に歌を作ることに熱中しました。言葉からはなれたくて、楽器を、音楽を始めて、20代の頃はただただ楽器を弾いていたかったのに、また「言葉の世界」に戻ってきたような、複雑な心境でもありました。

 そして、2年前にトルコの振付家アイディンさんの提案で、身体と楽器の関係を模索するプロジェクト。骨格構造を学びながら「言葉のない世界」。己の身体を健康なことをよいことに好き勝手動かし、知らぬ間に年を重ね疲弊してきたので、自分が骨のことや連動する身体とその先にある楽器の関係について、考え、トレーニングをするなんて、夢にも思っていませんでした。一方で本を読み大学の授業のために上演台本をつくる日々。昨年、今年はソロコントラバスCDの制作。録音物という「音だけの世界」。

 こうして振り返って、あらためて考えてみて、さて、「どんな音楽をしたいの?」と自ら問うてみても、いまなお、具体的なことはあまり想像できないのです。やっぱりただものを考え、身体を使い、楽器を弾いているだけ。なにかそうして音楽をするための、場所や機会や素材やテクストや楽譜などがあれば、それをするだけ。なにもなければ即興をする。経験を積めばいろいろとアイデアはたくさんでてくるけれど、それはそれだけのこと。それは同時にそのことの難しさを知ることでもある。そして、少なくとも現状、多くの人間や生き物の存在のために役立っている訳でもない。

 シアトリカルな表現を形にすることは私にとって、人間という生き物について考えることそのものであること、ソロでコントラバスを弾くことは、私が人間が動物であり生命であることそのものであること。そんなような漠然としたイメージの中で、そこに近づこうとする。近づこうとする意思や意図がまた邪魔をする。

 この「出口のない遊戯」はとても楽しい。ニヒリズムに陥る暇がないほどに。しかしまた、その「出口のない遊戯」を越えてみたいとも思う。

「momotaro」や「デデ・コルクト」がその突破口になるとよいなぁ。



 





12月2日 momotaro (昼公演もあります)

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2名の音楽家が出演するKhkhsによる集団創作「Momotaro」。わたしたちは、おそらく日本に暮らす人々なら誰でも知っている「桃太郎」のおはなしを素材に、この春から作品作りを開始しました。テキストは芥川龍之介作「桃太郎」。
 
 わたしたちはこの試みを「プリミティブオペラ」と名付けてみました。プリミティブオペラってなんだろう。そもそもオペラとはいわば音楽劇、そして世界中の数多ある音楽劇の中でももっとも洗練されたヨーロッパの音楽形式です。ヨーロッパの音楽劇と言えば、教会の典礼劇つまり聖書をベースにした宗教劇、宗教音楽、そして宗教からはなれ「芸術作品」としてオペラという形は完成され、娯楽性をつよめたオペレッタ、ダンスの要素をつよめたミュージカルへと発展して行く。そこで歌手は役を「演じる」。つまりそれは演劇であります。一方で、20世紀は歌や音楽は、個人の表現として、受容されるようになります。つまり、民話や神話や聖典ではなく、一個人の感覚や喜怒哀楽、思想、社会参加のアチチュードへのそれぞれの共感の集合が音楽という「空間」を成立させていたということができます。そこで「演じる」という行為はきわめて相反的な行為であるといえます。これは、当然西洋近代の芸術家像をベースにしながら、20世紀以降音楽というものは、劇的なるものを排除することによって人々の間で共有されていたということを意味します。いわば、ギターをかきならし、言葉を紡ぎ、歌えば、誰でもベートーベンということです。古来、芸能や祭事では当たり前であった、「演じる」というファクターを排除することで、音楽は音楽としての独立性を獲得してきたといえます。そこでは「演じること」とは恥ずかしいことであります。消費社会においてシンボライズされてアイコンを演じる、という場合においてさえ、例えば、あるシンガーソングラーターのつくる音楽と人格と生活の緊密な関係が要求され、矛盾が批判されたりもします。

 逆に言えば現代社会では、あるドラマツルギーを通じ映画や演劇において、個人が個人を演じること以外のものを、演ずるべき対象として表象する必然が失われてしまったということができます。一方でおそらく、芸術表現がもう一度あらためて、共同性や公共という概念に眼差しを向け始めたとき、演劇やパフォーミングアーツの創作において、神話や民話を古典の素材に演じる、個が個を演じたり、個が個の自己表現をする以外の方法を、たとえば神話の構造分析的読解や、古典芸能の再解釈の方法の模索が創作活動のよりどころとなったでしょう。代象行為として、神々を演じるのもまた人間であると。私たちの「Momotaro」もこの一連の文脈、あるいはその批判的継承にあるのでしょう。そして音楽というフィ−ルドにおいて「演じる」というファクターを、現代再導入することの意義もまた検討されなければなりません。

 しかしまた、こうした検討、たとえば「演じる/演じない」という問題と考証を背景にしながらも、ただそこに書かれていることを「表す」ために何をするのかと考え、歌を歌い、朗読し、楽器を弾き、身体を動かし、ロールを演じただけのことでもあります。その行為こそ、「プリミティブ」たるゆえんであります。舞台に立つ二人は音楽家ですから、それらを何らかの形で「音楽」というフレームの中で曲を作って演奏して表現することも可能なことでしょう。ただ、あえてそうしないことで、人間の営みのもっともプリミティブなところを発見できるのではないか、という思い。

 音楽が音楽の中にはない、ということにきづいたとき あらゆる人間の営み、行動を美しいと思えるのか、虚しさと憎悪につつまれながら、それでもやっぱり慈しもうか。


 芥川龍之介版「桃太郎」。よくしられた「桃太郎」とは大きく異なる、この虚無的で理知的な美の輪廻に透徹された言葉の世界。人間という生き物に対する鋭すぎる警鐘。テキストにたじろぎながら、目一杯カラダを使いながら、楽器を弾き、歌を歌う。音楽家である出演者が音楽の枠を超え、作品の中で、どのように、そのような「プリミティブ」な行為や思いを、お客様に問いかけ、共有することができるだろうか、私たちの集団創作のプロセスはまさにその実験場でした。溢れ出た問いや工夫が、作品として実を結び、お越しいただいたみなさまと分かち合えることを願いつつ。

河崎純



 それではみなさまぜひお会いできること楽しみにしています!ご予約は直接私に返信いただいても承ります。



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khkhs企画・創作 

primitive opera 【Momotaro】

このたび、芥川龍之介の【桃太郎】を題材に、コントラバスとボイスとカラダだけのプリミティブ・オペラ【Momotaro】を創作し、上演いたします。パフォーマーは、この2月に【db-ll-bass】でトルコのコレオグラファーとともに音楽と身体の関係を投げかけた河崎純、そして演劇的表現としての音楽を実践するボーカリストの国広和毅。芥川のアナーキーで研ぎ澄まされた言葉の世界に、音楽家は音と演奏するカラダでどう対峙するか。この異色作をぜひともご覧いただきたく、ご案内申し上げます。

芥川龍之介の≪桃太郎≫・・・・

大正13(1924)年、『サンデー毎日』に掲載。
桃から生まれた桃太郎は、ある日ふと、鬼が島の征伐を思いたつ。ただただ、お爺さんやお婆さんのように、山だの川だのに仕事に出るのがいやだったからである。極楽鳥のさえずる美しい熱帯の島で平和に暮らしていた鬼たちは、自分たちが征伐される理由もわからないまま殺戮されていく。年は経て、月明かりを浴びる島では、鬼の若者が黙々と桃太郎への復讐を準備していた…

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◆12月2日(月) 
昼公演=15時 (14時30分開場)
夜公演=19時30分 (19時開場)

◆森下スタジオ(Sスタジオ)
(都営新宿線・都営大江戸線「森下駅」A6出口徒歩5分、半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A2出口徒歩10分 http://www.saison.or.jp/studio/)

◆予約2,000円/当日2,300円
◆予約お申し込み・お問い合せ=kiki.arts.project@gmail.com

◆企画・創作=khkhs
パフォーマンス:河崎純(コントラバス)+国広和毅(ボイス)
照明:畠中泰正  舞台監督:白澤吉利  制作:畠由紀

◆FB  稽古過程の動画もあります!

https://www.facebook.com/events/578301672206508

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【パフォーマー】

◆河崎純
 コントラバス奏者。身体のすべてを使うかのような演奏スタイルは、観る者に、音楽の源泉が身体にあることを想起させる。特に、トルコのコレオグラファー、アイディン・テキャルと組んだ、自らの演奏と身体表現によるソロ作品「db-ll-bass」(2012〜13年)は、身体と音楽という問題に一石を投じた。
 ソロ演奏のほか、石橋幸(ロシア・アウトカーストの歌)、ギターの小沢あき(ブレヒトとロルカのシリーズ)などと定期的なライブを続ける。
 また、ポルトB「ブレヒト演劇祭の約1時間20分」、SPAC「大人と子供によるハムレットマシーン」、江戸糸あやつり人形座「マダム・エドワルダ」など、多くの音楽劇の音楽を担当。来年は、ドレスデン交響楽団の新作音楽劇にソリストとして招聘されている。
 ソロアルバムに「Biologia」。活動詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/jk50654396

◆国広和毅
 作詞作曲家、ボーカリスト、ギタリスト。ソロのほか、河崎純らとのバンド、民謡の木津茂理、津軽三味線の山中信人との超民謡ユニットでも活動し、ジャンルを超えた自由かつ先鋭的な音楽性で異彩を放つ。
 音楽のジャンルのみならず音楽というボーダー自体を超えた表現も実践し、この9月にはトラ・ゾウ保護基金のために書き下ろした「木の神が見た夢」と題する童話を一人5役でに朗読、独特の世界観を繰り広げた。
 舞台・映像作品の作曲と演奏でも活躍。主要作に、イラン・インド・ウズベキスタン・日本共同制作演劇作品「演じる女たち―ギリシャ悲劇からの断章」、コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」、日本トルコ共同作品「Sound Migration」ほか。演出家・田中麻衣子の主宰するThéâtre MUIBOの音楽も担当。

2月初演のベルリンのリハーサル第2クールより帰国しました。12月22日23日ぜひ!

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両方とも入場無料です。

 2013年12月22日(日)

エイブルフレンドフェスティバル 横浜 象の鼻テラス

http://www.ablefriend.com/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/

私はダンスの矢作竜太郎さんと11時半から出演します。

フェスティバルは21日22日です


2013年12月23日(月) start 18:00〜 / 20:00〜

ブレヒトとロルカ
2013年12月23日(月) start 18:00〜 / 20:00〜
nuisance galerie (ヌイサンスギャラリー)
東京都千代田区西神田 3-8-5 tel. 080-4145-4366
小沢あき(ギター)河崎純(コントラバス)三行英登(映像)
http://brechtlorca.com

18時からと20時からの二回公演ですが、それぞれ違う内容を予定しています。
投げ銭式ですのでどうぞお気軽に。

http://www.tokyoartbeat.com/venue/2AE02D26


11月中はひさしぶりのユニマルカ。ブレヒトとロルカも毎回突っ走ってきたので、今回は今までやってきたもので対応しようと話しもあったけれどもやはり、いろいろ新しい試みにもチャレンジ。

12月に入り「momotaro」、たくさんのご来場ありがとうございました。翌日からまた3週間ほど、2月ドレスデン初演のドレスデン交響楽団との「dede korkut(デデコルクト)」のベルリンでの稽古のため渡航しました。


http://dedekorkut.eu/team_en/




HELLERAU – European Center for the Arts Dresden
2014 February 8th – 8.00 p. m.

http://www.hellerau.org/

Maxim Gorki Theater, Berlin

2014 February 14th – 7.30 p. m.
2014 February 15th – 7.30 p. m.
2014 February 16th – 6.00 p. m.

 「dede korkut(デデコルクト)」はだいぶ全貌がみえてきました。映像、楽譜、コレオグラフ、7割方はみえてきました。メンバーやスタッフチームのキャラクター、パーソナリティ、座組の性格がだんだんわかってきました。みな、民族的にもいろいろな出自をもっているようですが、私と、トルコからの振り付けのアイディンさん以外はみなベルリンに暮らしています。本番ではほかに中央アジアの歌手や演奏家もゲストで入ります。稽古は演奏以外の、アイディンさんの振り付け部分にかかる時間が多く、ディテールにひじょうにこだわり、くり返し、稽古するため、全体の内容にしっかり対峙するところには至っていません。つまり、「デデコルクト」というテクストを、なぜこのように演奏し、身体を動かすのかがまだ私の中で腑に落ちていないというか。私なりの視座のようなものがまだ獲得できていません。内容面での中心、作曲のマークさんは、自分の出自とこの「デデコルクト」は大きく関わっています。「デデコルクトの書」というテクストは15世紀くらいに形になった、チュルク族やイスラムの口承の英雄叙事詩です。ベルリンという街自体、トルコからの移民人口が多く、社会問題になったりもしていますが、トルコ人の文化が根付いています。そこで、このデデコルクトを演じる意味はとても大きいように思われます。そしてアナトリア、ウズベキスタンやカザフスタン、トゥバあたりまでの歌や楽器演奏。人間の移動における様々な歴史の渦。しかしそのなかで、気づいてみると私は日本人で、祖先的にもおそらくそういう移動の歴史とは無縁でしょう。たとえば、そこで私が何をするのか、という大きな視座を持ち得たら、次の段階に進めるのでしょうか。まだなかなか難しいですね。一方、楽譜はけっこう難しいので、歌詞もたより。英語で内容を確認したり、ドイツ語の読み方を確認したり。葛藤の日々でした。

 英語も苦手なのでコミュニケーションもままならぬことも多く、もどかしく、孤独感もいだきますが、スタッフも含めそれぞれ個性的ですがみな良い感じ。実に愉快です。繊細に楽譜を書くMarcさんは、いつも高笑いでおしゃべりで忙しい。いたずらに弾くギターの現代曲のフレーズが美しい。ソリストとしては巨大なコントラバスフルートを吹く怪人、サーシャさんが、オーケストラパートで使う通常のフルートで弾くバッハの無伴奏のたしかなこと。エレーナさんもしょっちゅう歌っているが、突如として歌いだすロックやR&BやJAZZスタンダードなどのアメリカンポップスも上手で愉快。マークさんがブレヒト/アイスラーの「子供の国歌」(東ドイツの第二の国歌といわれた歌)を弾いたので、私が「ソリダリテ」という真っ赤な労働歌を弾くと、サーシャさんが大笑い。サーシャさんはハンス・アイスラー音楽大学を卒業していますが、あとで話したら、アイスラーの旋律が大好きとのことで、歌ってくれた。とくに「小さなラジオ」という曲が好きだそうです。わたしも大好きな曲で、ブレヒト/ロルカコンサートでは最近は小沢さんのソロで演っています。

 そして私にとって新鮮なのは、振付家のアイディンさんを除き、メンバーやプロデューサーを始めスタッフの世代が近いことです。音楽や演劇やパフォーマンスなど私が関わるプロジェクトは、なぜか世代がバラバラだったり、60代以上の先輩だったり、学生だったりが多く、スタッフワークも含め同世代が多い現場ってなかなかないのです。みな信頼し合っているようで羨ましい。大先輩とだと、いつまでも若い気でいられるし、ワークショップや学生とだとどうしても「先生」的な立場になってしまいつつ、一緒に遊び楽しみ、しかし気づいてみると、30代後半から40代といえば、もう立派な第一線の「大人」ですよね。私なんて正直にいって、いまだに春休み終わったら学校がなかった、という状態。学校卒業して20年近く経ちますが。それでも生活できているのだからまぁ、なんとも不思議なものですが。ヨーロッパではここドイツでもやはり舞台芸術の制作状況は日本と比べ物にならないくらい良い。みんなしっかりと「仕事」しているように感じられました。

 海外で長いリハーサルのある現場ではいつも思いますが、とにかく楽器の運搬がないのが楽。今回はホテルと稽古場も歩いてゆける距離。乗り物に乗らないのも気が楽。稽古は朝から夜まであるが、どんなに心身ともに疲れ果ても20時ころ部屋に帰れば、自分の時間。この時間がありがたい。東京では本番続きだから、夜が仕事。演奏という肉体労働して重い楽器かついで電車に乗って帰るともう、なにかする時間なんてない。酒が入って帰宅すれば一日が終わってしまう(じゃぁ呑むなっ、という話かも)。たしかに昼間は時間があるのかもしれないが、この後仕事で出かけるのかと思うと落ち着かない。というより準備。どんな生き方、方法があるのか、いろいろ考えてしまいますね。みんなは、もっと地に足着けて生活しているように見えました。

 マークさんに招かれある夜、小学生の娘の友人家族やいろいろな人が集まるクリスマスパーティーに行った。子供たちは飽きてしまい歌うのをやめバラバラに遊び始めたが、大人たちは何曲もクリスマスキャロルを歌った。マークさんと、サーシャさんがギターとフルートで伴奏した。アパートではなく庭とスタジオが素敵な家だった。庭先には沼があり、明るい時間には気まぐれな釣り人が往来した。極寒の庭に佇んでみたり、中の会話に加わったり。

 ある夜は、招かれてジャズセッションに出た。小さなバーに楽器を持ったミュージシャンがたくさん集まっていた。お客さんもいっぱい。朝の4時まで続くそうだが、私は12時頃失礼した。フリーインプロゼーションとJAZZだった。たまにはでかけなきゃ、と自分で尻を叩き、ジャムセッションに連れて行ってくれたピアニストのMarc Shmollingさんが紹介してくれた実験音楽のコンサートにも行った。フリーインプロヴィゼーション、シュトックハウゼンのクラリネット独奏曲の演奏とシュトックハウゼンをテーマにしたアニメ、音を一音も吹かないサックスによるシアターピース、なにかテーマ性をもったギターなどの弾き語りが一人一曲(詩)ずつ入れ替わり立ち替わり演奏。価値観も多様でよくできている。レベル高い。構成も良い。両方ともよく人が集まっている。東京だったら多分お客一桁ですね。まず入場料が安い。おそらくギャランティーも安い。20代の半ばの頃、高橋琢哉と中野のplanBで、自分たちのコンサートだけではなく、いろいろ企画しようと考えていたことを思い出した。内容としてはこんなイメージがあったかも。終演が遅くなり、出演されていたベルリン在住のピアノの千野秀一さんが、真っ暗な道をトラムの停留場まで送ってくださった。トラムは24時間運行。誰も乗ってこないまま30分。ブラート・オクジャワがソ連時代の真夜中のモスクワを歌った「青いトロリーバス」を想い出した。

 今回の渡航は、ホテルも稽古場も郊外(ヴァイセンゼという美しい小さな湖のあるところ)で、オフも皆無であまり街中にでられませんでした。ホテルの部屋の中とサウナで過ごすこと多し。ホテルの部屋でインターネットをしていたら、ある某有名レコード会社の仕事で6、7年前に録音した音源がありました。ベーシストとして、いわゆるスタジオ仕事をたくさんやっているわけではないので、そういう音源はあまり手元に残っていないのです。CDの録音だったので名前こそクレジットされているものの、ほぼ匿名の仕事です。その日はじめて会ったアーチストとディレクターに譜面を渡されブースに入る。譜面通り演奏(初見は得意ではないので必死で演奏)。直し。音だって加工されているからまぁ、私が演奏しているという痕跡はほとんどないわけです。演奏したときからすでに、何らの思い入れがないそれは、まるで、「自分の音」とはいえないわけで、でもなぜかそういう音だからこそ愛おしくおもってしまいました。パーカッションやストリングスが躍動するアンサンブル(もちろんアンサンブルも全員別録音です)のなかで、しかもパソコンできけば、指ではじいた小さなピチカ−ト音は注意深く聴かないと聴こえないくらい。スタジオで、1テイク目、楽譜見ながらも必死でグルーブ。「もう少し一音ずつ均等にひいていただけますか」とかいわれ、そのように弾きなおす。「やっぱさっきのほうが勢いもあっていいですね。ありがとうございます。じゃぁ、適当にこっちでミックスします。それとももう1回録りますか?」「あっ、だいじょうぶです、もう、。」たまのスタジオ仕事ではよくこんな会話がある。私は楽器弾くの上手じゃないから、いきなりその中間ができないんだなぁ。この時もきっとそんなやりとりの中で録った音。でもなぜか、ベルリンのホテルの部屋の中でひとり聴きながら、そんな自分からはなれた自分の録音の音のたたずまいに愛おしさを感じた。それなら、いま、外国で、こだわって、抵抗したり、葛藤しながら弾いている音ってなんだろうな、、。その録音の日は夜遅く出発して山のほうに旅に出ることになっていた日で、急に入ったこの仕事を気もそぞろに、なんとしても終えなくてはならなかった。渋谷から家に戻り楽器を置き、翌朝から山に行くことのできる最終電車に間に合った。

 はじめに滞在した、スイス、ヴェヴェイ、ローザンヌ、ジュネーブ。ローザンヌでは、以前日本舞踊公演で公演したときにも訪ねたアール・ブリュット美術館に再びいくことができた。小さな美術館に3時間はいた。大学の卒業論文で取りあげた、画家ジャン・デュビュッフェのコレクションによるアール・ブリュット美術館です。数多ある美術館のなかで、「私の美術館」はここだと思う。それは初めて訪れたときにも思った。私は母方の従兄弟が3人いるのですが、全員様々ですが養護学校に入り、現在も福祉施設で暮らしています。私と同じ歳の従兄弟はよく現在まで生き続けることができた、という病を持っています。大学を卒業する頃までよく時間をともにしたお兄ちゃんは、いわゆる自閉症と発達障害で、養護学校の紹介で、印刷会社にはいりましたが、いろいろな心的外傷で、社会生活が全く営めなくなってしまいました。そのお兄ちゃんとは本当に多くの時間をともにし、施設に入る前の数年は、目の動き一つ、小さな所作、声の大きさ、すべてを過敏に反応されてしまうので、こちらもずいぶん消耗してしまいました。こちらの1ミリの動きが彼にとっては暴力になることがある。反応される動きと大丈夫な動きがある。よく心療内科や施設にも付き添いました。彼もたくさん描きました。鉄道やバスのものが多く、自分や他者とのコミュニケーションのためのメモ書き、読まれることのない手紙。一方で、たとえばこういうものが「美術館」に所蔵されているということは、人間という生きものは、よくも悪くもいきつくところまできてしまったのだなぁ、と思ってしまいます。自我というものが、精神の病理の領域に入った現代の社会で、私はここで、この美術館で生を懐かしんでいるだけだろうか?しかしこの美術館の中ではただ風呂につかるように自分のカラダを佇ませることができる。普段でも、電車の中で、このような精神の「障害」を持った人がいると感じると、なぜかそこに引き寄せられてしまう。お兄ちゃんの絵やメモも、この美術館に所蔵されている「作品」も、ただ私の生をえぐり震わせる。それらは、人間のアナザーサイドの自我や欲望なのか、あるいはデュビュッフェの用いた「(野)生」という言葉で言い表すことができるのか。

 そして、ジュネーブを訪れたのは、日本舞踊家、西川千麗さんの命日だったことに気づく。一周忌。街を歩くまでこの日がそうだとは、気づいていなかった。海外で曜日や日にちの感覚もう失っていたので。千麗さん遺作、「孤独な夢想者の散歩」ジャン・ジャック・ルソーの生まれた街。旧市街にルソーの生家とその記念館がある。

 ヴェヴェイはトロッコで800メートルほどあがったところから、レマン湖とアルプスをみた。はじめてみた景色だった。透き通った青に白が山の稜線から溶け出し、霧が水煙のように立ちのぼっている。そのあと湖畔まで降り、水を触ろうと冬のレマン湖に足をすべらせた腰まで浸かった(笑)。

この夏、京都の亡き西川千麗の山荘で、演奏した映像です。



http://www.senrei-nishikawa.com/dance_with_camille_j.html

 
 日照時間の短いベルリンは暗かった。10日間で晴天は2、3日ほどだった。都会なのに星がきれいだった。街灯が少ないせいもあると思う。暗い町並みに、ぽつぽつとクリスマスの飾り付けの灯りがみえる。この街の人々の感じは好きだ。ロシアや東欧の街ではよくそう思う。夜のすいたトラムやバスのなかの人々。旧東側は中心部から出ると町並み、建物それぞれの個性はない。なにか屋内の、アパートの部屋の狂気みたいなものを感じなくもない。寒い土地では、室内と屋外の生活の境界がはっきりしているのは当然です。文化や習慣は重いドアに閉ざされた室内で育まれ、外に開かれることはない。外に開こうとすれば、たとえば書物、たとえばコンサートといった別の媒体や空間や「手続き」、間接的なコミュニケーションが必要になる。そういう空間や思考が、「公」という概念、あるいは「私(有)」という概念を同時に作る。家のなかで、あんなに素敵なパーティーでみんなが歌っているなんて外からはわからない。私は南に憧れる。

 演奏活動を始めたばかりの頃、まだバブルの名残もあった90年代の半ば、きっと10年ぐらいして私がまだ活動していたら、中国やその他アジアに行き、演奏するようになるんだろうな、と思っていました。また、そうなったらいいな、と思っていました。しかし、そういう仕事の話はなかなかはいらない。私は自分からネットワークをつくることがなかなかできず、そういう理由もあるのだと思いますが、やはり、文化、経済的に別の回路が存在するのだと思います。経済的に自由化され文化的に西洋化されてもやはりその溝は深い。その深さをまだ、結局西洋、日本の側からしか実感できてない。ひとことでいえば、西洋においていわゆる「芸術」とよばれるものは作ることも享受することも、「人権」というものを支えにした「公」的性格が強い。逆に言えば、その「成熟」は現代社会において、その裂け目を割って新しい世界を提示することを許さない。私はこの「公」という概念におけるあいまいな成熟もここちよくて好きだが、これは個人主義的な他者の存在の容認でしょうか。アメリカや日本はやはり「資本」でしょうか。商品としての価値が大きな基準になる。人間の生活にとって経済活動は最も根本的なものであり、そのひとつの極限の形をこの世界に描き出したのだから、反省も含め、やはりその歴史的意義は大きいと思う。それでは、中国は?アジアは?わたしにはまだわからない。しかし全人類と、その響き合いがいかなるものか、やっぱりあきらめずたしかめてみたいですね。
 

 この秋冬は、このリハーサルなどもあり、ベルリンやフランス語圏のスイスや、パリに行った。ドイツ、フランスというとヨーロッパの王道であるわけですが、実際今年の私の作品でも、バタイユ、ルソー、ブレヒト、ゼーバルトとずいぶんドイツやフランスに関わった。

 子供の頃、父がヨーロッパ出張から、お土産を買ってきてくれた。西ドイツからは、かまぼこのように大きな消しゴムとオレンジ色のメモ帳。フランスからは60色のクレヨン。大きな消しゴムは鮮やかなブルー地に白い文字がドイツ語で書いてあった。大きく実用的ではなかったので、なかなか小さくならず今も実家の机の上に転がっていると思う。60色のクレヨンは嬉しかった。巻き紙はくすんだグレーだった。すぐバラバラに散逸した。いずれの土産の文具も見たことのない色彩とデザインだった。父親がよく西ドイツに単身赴任する家族がアパートの同じ8階にすんでいた。まだ若いのにお父さんは立派な髭をはやしていたとおもう。西洋の香りのする家庭で、お母さんが、よく料理を作ってくれた。私の母が作る料理とは違う匂いがした。パイ生地の焼き色。ミュンヘンやボン、デュッセルドルフなどという街の名前をよく聞いた。小学校に上がる前、いつか家族で引っ越してしまった。小学校くらいから油絵の教室に通っていた。わたしは、ゆっくり時間をかけて描き、いろいろ色を混ぜたりしてすぐ汚してしまうので、教室が終わる頃の時間に行き、一人で遅くまで描き、片付け、まだ小学生だったが、先生に酒場に連れて行ってもらい、よくお酒を飲ませてもらった。つまみみたいなものが大好きになってしまった。そんな具合に教室の主みたいになって、ずいぶん長い間通っていたのだが、一時期そこにドイツ人とフランス人が通っていたことがあった。リサとトニオという正確に言えばハーフの金髪の姉弟は、お金持ちの家の子みたいだった。いつも終わる頃にドイツ人のお母さんが、手作りのお菓子などの手土産を持って車で迎えにきた。華やかな家庭が想像できた。フランス人は名前は忘れてしまったが「フランスケンちゃん」とよんでいた。日本語はほとんど話せず、ハウス食品のアニメにでてくる貧しい家庭の男の子みたいだった。先生が話しているのを子供ながらきいていると、お父さんは自動車工かなにかの職についているが生活は厳しいみたいだった。なにか月謝のトラブルがあったようで、教室はすぐにやめてしまった。唐突ですが、子供の頃の原イメージ。フランスと言えば「フランスケンちゃん」と、味気ないグレーの紙に包まれた60色の夢のようなクレヨンを想い出す。父の土産ではアメリカから北方原住民の太鼓、メキシカンのポンチョ(近所の子の分も買ってきて、みんなで着ている写真があるがあまりにも似合わない)。台湾に単身赴任していたので、台湾からも20色くらいのカラーサインペンセットと塗り絵。子供心に安っぽい色合いだと思ったかどうか、でもその頃、あまり気に入る色ではなかった。あとは父が自身のために買ってきた台湾の歌手の歌謡曲のカセットテープ。わたしも覚えてしまうほどよく聞いた。その頃よく街で流れていた日本の演歌などの歌謡曲のカバーも多かったが、くらべると、この異国の柔らかな響きの言葉がとても好きだった。

 与えられた異国のイメージ。自分で本など読むような年頃になって、大学に進学することになったときは、フランス文学かロシア文学、インド哲学、日本の民俗学(サンカとか漂白、遊行に関心がありました)を勉強してみたいと思い、結局フランス文学科に入ったけれど、入ってみたらなにも勉強せずに音楽をした。

 そしていまはこうして、、。まだ新学期来ないですね(笑)

 「momotaro」のとき国広君と「だんだん年重ねると、頭脳労働にどんどんシフトしてゆくもんだと思ったけれど、、」などとはなしたけれど、「momotaro」でも「dede korkut」でも身体ぼろぼろ傷だらけです。

「dede korkut」稽古で100回以上聴いた気がする。何十回と繰り返してこの曲にあわせて動きをつくった(笑)ふぅ、、。


きょうは立教大学文芸思想学科後期演習発表

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こんにちは。あけましておめでとうございます。

きょうですが、立教大学文芸思想学科後期演習発表があります。

「アウステルリッツ フラグメンツ」(原作 W・G ゼーバルト)

13時15分から 立教大学池袋キャンパス11号館一階101(模擬法廷教室) 入場無料

前期の「ブレヒトオラトリオ」につづき、脚本、演出、作曲をしました。今期は、来月の「デデコルクト」初演のためにドイツ滞在が多かったので、授業は半分くらいしか参加できず、生徒もメンバー一新で、まだまだ未完成ですが、なかなか面白い作品になる可能性を秘めているので、発展させながらまた別の形でも発表できたら、と思います。今期もまた、今までとは違う個性あふれる生徒のみなさんです。メインが就職活動の時期によくがんばってくれました。12月の「デデコルクト」リハーサルのためのベルリン滞在では、リハーサルが終わって夜中は、この作品のために歌、合唱の作曲をしたり。ホテルは旧東側ヴァイセンゼというところの、湖とユダヤ人墓地のすぐそば。ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの詩を用いて、この作品のために深夜や早朝に作曲しました。早朝の霧深い湖畔を歩きながらメロディをたしかめてみたり。朝4時頃のskype授業もありました(笑)。

原作の「アウステルリッツ 」は、「私」が、旅先で出会った建築史家アウステルリッツの自らの過去、ホロコーストに、執拗にその細部を漂いながらたどる語りを聞き書きする文体の、夢幻的な散文小説です。今回は、ラジオドラマの公開収録という設定で台本を書きました。いつものことですが、演劇や舞台表現系の学科ではないので、、ほとんどの学生は特に、なにかを舞台の上で「演じたい」「表現したい」という欲求を前提に授業を登録するわけではないので、はじめは??の状態ですが、その学生たちが、わりとすぐに早い段階でこの非日常と日常のはざまにあるような時間に、それぞれの個性で応じてくることにはいつも驚きです。そしてその応じ方のそれぞれがすべて新鮮です。


 一方で、9月に初演した音楽劇「地獄門」の再演(というよりかなりの改作が予定されています)。こちらは、授業とは異なり、明確に演じること、表現することへの欲求をもった、芸能プロダクションに集った役者や役者志望の方々との作業。私自身も、きっと何かを表現せずにはいられなくて、大学生の頃楽器をはじめたので、喜びに先立つそこでの自我の苦しみのようなものは、わかるつもり。学生の発表とは対照的。でもみなさんの元気いっぱいの歌が、作曲した私にとっては、嬉し恥ずかし、でいつも感謝しながら稽古しています。こちらのメンバーが初演とはだいぶ入れ替わり、夏に作った曲たちや新曲を、また新しいメンバーで稽古し直しています。私は「デデコルクト」の初演のため本番に参加できないので、音楽監督と作曲のみでの参加。ギターの小沢あきさん、コントラバスの服部将典さんに新たに参加してもらい助けてもらっています。このお二方は強力すぎます。そしてヴァイオリンも加わり、ほかソプラノ、ピアノ、尺八、鼓でのアンサンブルになります。


Yプロジェクト 「地獄門」

【脚本・演出】今井尋也 【音楽】河崎純

大正時代、東京。西洋の文化が怒濤のように流れ込んでくる時代。
キャバレーやオペラ、文学など新しい和洋折衷文化が生まれる。
売れっ子作家の‘渋谷寛’は妻と別居して、女優の‘松井すまほ’と共に「渋谷歌劇団」を立ち上げる。
一方、ポール=クローデルは仏蘭西駐日大使として妻子と共に来日。
ポールの姉であり、彫刻家ロダンの愛人カミーユからの手紙を心待ちにしていた。
ある日ポールは、‘すまほ’が主演する舞台「地獄門」を観劇、一目で‘すまほ’に恋をする。
その舞台上演中に関東大震災が発生する。
恋人達の運命は激しく絡み合いながら愛の軌跡を描く。


2月3日(月)pm7:00開演
  4日(火)pm2:00  7:00 2回公演

前売り 自由席3500円
    指定席4000円
当日  自由席のみ4000円

会場:渋谷区文化総合センター大和田6F伝承ホール



そんなかで、久しぶりのギターの近藤秀秋さんのレコーディングに参加。曲はアルハン・ベルクの「ここには平安がある」と、マイルス・デヴィスの「blue in green」、それから近藤さん作の即興主体の琵琶とのアンサンブル、とまったく異なる性格の3曲。複雑で緻密な器楽音楽と向き合うのは久しぶりの感触。

この正月は、歌の作曲やアレンジと、一方で器楽音楽の厳しさのようなものを再認識させられる日々でした。

また1年が始まってしまった。心身ともに健やかに過ごしたいものです。

うわっ、こんなことを書いてたら、もう出かける時間になってしまった、、。13時15分スタートです。ぜひ立教大学に遊びにきてください。

本年もよろしくお願いいたします!!

ドレスデン 5が4になったとき

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こんにちは。2月8日、「dede korukuto」ドレスデンでの初演が無事終わり、ベルリンに移動しました。

10月から稽古に入ったこの作品ですが、2月からはようやく、オーケストラ のドレスデンシンフォニカーとウズベキスタンやアゼルバイジャン、カザフスタンからの演奏家も加わり、一週間のオーケストラリハーサルを経て、無事初演を終えました。



今回、身体をつかったソロパフォーマンス、ソリストのカルテットでの演奏のほかに、オーケストラの一員としても演奏しました。1月に入ってから作曲のマーク・シナンさんから膨大な枚数の楽譜が送られましたが、いろいろといそがしくしていたので、飛行機の中で本格的に楽譜をよみはじめました。複数拍子、変拍子、テンポチェンジだらけでたいへん。指揮者のいるオーケストラでコントラバス奏者として演奏するのはほんとうに久しぶりでした。

指揮者のファビアン,Fabián Panisello さんはアルゼンチン人ですが、オケの練習が始まると、コミュニケーションはほぼすべてドイツ語で、いつも迷子状態。「うわっー、何小節目からはじめるのだろう、、、」とあたふたしているともう演奏はじまっている。おまけに難しい。そして皆、苦労しつつもどんどん弾き込んでゆく。追いつくことで精一杯。眠るひまもないほど、毎日毎晩、楽譜とにらめっこ。10月からのソリストとの稽古や身体パフォーマンスの稽古は、英語、ドイツ語わからないなりに、親密に稽古していましたが、オケがはいると、迷子の子猫。孤独、、。当初は、負担が大きいので、ソロとカルテットに集中してくださいとのことでしたが、言語でのコミュニケーションが難しい分、作品理解のためにはオケへの参加と楽譜の情報の読み込み、アナリーゼも不可欠と思い、みずからのぞんで参加したのですがこんなに大変だとは、、。総譜にするとたった数秒の出来事が、紙一枚に書き込まれている訳ですから、ヨーロッパの伝統の狂気というか、ある種の病、ヨーロッパの病理ですね。そしてオーケストラの面々はそれを当たり前のようにその通りに演奏します。ヨーロッパを強く感じます。

 そこに中央アジアからのゲストの演奏家がはいりました。ウズベキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャン、彼らが話すのはロシア語です。彼らがロシア語を話すことの意味。私たちが当たり前のように異国語である英語でコミュニケーションするように、ロシア語で話す。ソビエト、社会主義が20世紀のインターナショナルたらんとした痕跡。そのことを負の遺産、だといってしまってよいのかどうかはわかりません。そしてみなさん複数の言語を操るのですね。ホテルから劇場までの毎日の移動の車。分乗して行くのですが、次第に私は、彼らが乗る車にのせてもらうことが多くなって行きました。車中はまったくわからないトルコ語と少しだけわかるロシア語。でも、ドイツ語と英語(ほんとうにみなさん気遣ってくださり、英語をはなしてくれますが私は英語もそんなにできないので、、)のなかでの孤独感より、アジア人の話すロシア語のなかに身をおくことの心地よさ、安堵。

 そしてやはり音楽。中央アジアの演奏家の方々が演奏する、ドンブラ、サト、ケマンチェの音色の美しく、幽けきこと。そして歌、ホーメイの力強さ、打楽器。西洋のオーケストラの演奏家が一つの楽器の演奏に特化したプロフェッショナルであるのに対して、彼らは歌も太鼓も、弦も。いわば、「楽器のマスター」ではなく「音楽のマスター」なのですね。もちろん、日本だって、かつては三味線、琴、謡い、踊と全て稽古していたのですが。弓弾きされるサトの音楽の中で、私たちソリストが楽器をかかえて遊牧するように歩く場面(ノマドウォーク)があるのですが、はじめてきいたとき、その幽かな音色に浄化され、歩きながら落涙を禁じえませんでした。心が動かされた瞬間から、何もなくなるまでのあいだの幸福。

 そして、一方あらためて日本人が「遊牧の民」「混血の民」ではないことを強く意識します。200年以上鎖国していたわけですから。ソリスト、マークさんの両親は、ドイツ人とアルメニア系トルコ人、ヴォーカルのエレーナさんはセルビア人、サーシャさんはなぞ?チャーミングな「バイキング」みたいですけど(笑)。

  私は、特に日本人であることの自負や気負いはないけれど、やっぱり日本人の私がそこで何をすべきか、何を演奏するべきかの「意味」については考えてしまいます。正確無比のドイツのオーケストラと、繊細に歌うアルゼンチン人ファビアンさんの指揮、中央アジアの音の揺らぎのなかで、、。

 そしてわたしが、プレイし楽器を演奏するという意味で、やはり中央アジアの音楽のほうに吸い寄せられて行くかのようでありました。今回二台のコントラバスを演奏しているのですが、オケではスチール弦、ソロ、カルテットではガット弦を用いました。ソロでの即興と自作(ここでは、一つ目の怪物テペギョスの人間性と人間性を解釈し演じます
)はやはりアジアの楽器の響き、音色に近いガットを使いたいと強く思いました。

 羊飼いが妖精を姦して生まれた、 「テペギョス」はこのイスラムの神話的叙事詩のなかで、血縁的結束を逸脱し異教徒というカテゴリーもこえた、異物として禍々しく存在しているが、今回の作品はその「異」に対する多義的な解釈のサジェスチョンです。現代の日本人である私が遊牧や異端を演じ、たった独りで演奏し、即興し、親密なカルテットで演奏し、オーケストラと指揮の中で演奏すること、いろいろな答えをこの、ドイツ語で歌われる、トルコ、アナトリア、中央アジアの叙事詩の作品の中で出してゆかなければならない。


 オーケストラや指揮者のファビアンにもほんとうに感謝。ファビアンはオケの現代曲の経験が少ない私の、きわめて初歩的な質問、疑問にも丁寧に答えてくれました。そして楽器を提供してくれた、オケのチューバ奏者のトム。仏頂面のトム。彼は本来オケではコントラバス奏者。もしものためにチューバとコントラバス両方スタンバイしてくれました。稽古で、ドイツ語がわからず困っているわたしのとなりで、時々小節数を英語でささやいてくれた。初演の本番ステージ後、中央アジアの楽器によるアフターコンサートがあった。そのなかにアジア人の自分が一緒にいなかったことが、悔やまれます。いつのまにか、ジャズも演奏するチューバのトムがコントラバスで参加した。仏頂面で大柄のトムがニコニコしながら嬉々とした表情で即興でコントラバスを弾いていた。僕の出る幕ではない。前晩の最終リハのあと、美音の爆音カーステレオでブラジリアンコンテンポラリーファンクをかけながら、鎮まりかえる夜のドレスデンの街を「マシュケ・ナーダー」と歌いながらレストランまで飛ばしてくれたオケの打楽器ハラルドも加わった。一緒にどう?とスタッフの方に促されたのですが、でも彼らの音楽聴いているだけで幸せだったし、それはまた、今度。

初演まで、正直ドレスデンでたいへんでした。「アイン、ツヴァイ、ドライ、フィアー」。フィアーというと4ではなく5な気がして、そういうところからすでに混乱がはじまるんですよね。もうリズムとるというより、数字数えることに苦しんだといっても過言ではない。「フィアー」が4に聴こえ始めた時だんだん、指揮やオケに慣れてきました。

 14,15、16はベルリン, マクシムゴーリキ劇場で公演です。

http://www.gorki.de/


 ウズベキスタンからサトや打楽器のタイールさん。ピーター・ガブリエルのツアーにて。この動画では弓弾きではないです。ひょうひょうと弾き、(たぶん言われるままに、はいOKッて感じで)踊っています(笑)。なんでもこいだなぁ!

Peter Gabriel - In Your Eyes / Live HQ Lyrics

http://www.youtube.com/watch?v=VK7Z83UbwKM




あの夢想

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2月27日(木) 西荻窪 音や金時 

http://www2.u-netsurf.ne.jp/~otokin/

「砂の舞台2014」

18時半開場 19時半開演 2300円

構成、作曲 、コントラバス 河崎純
朗読 青木純一
唄  三木聖香

テクスト W・Gゼーバルト 「アウステルリッツ」  パウル・ツェラン  ベルトルト・ブレヒト


 こんにちは。「デデコルクト」初演無事に終了し、ベルリンより帰国しました。




 トルコ、アナトリアの伝承説話をテクストにした、ソロ、身体パフォーマンス、即興、マーク・シナン作曲のカルテット、西洋のオーケストラ、コーカサス、中央アジアの伝統音楽の方々と共演、それぞれやっぱり意義や問題が異なり、それぞれが、「簡単にひとつにならない」ということの重要性を一つの舞台で演じる意義が体現された作曲のマークさんとドレスデンシンフォニカーの制作だったと思います。そのなかで、自分なりの、あるいは日本人であることからの視座をなんとかもちえることができ、コンサートを終えることができました!





  さて、27日、今回の「砂の舞台2014」は立教大学で今年度授業で行ったパフォーマンスで扱った、3人の作家のテクストを用いて構成します。みなドイツ語で書く小説家、詩人ですが、それを授業で選んだのは春や夏ですから、秋に話が浮上した今回のドレスデンやベルリンでの公演「デデ・コルクト」とは関係ありません。しかし、ずいぶんそこで考えることも多く、偶然にもドイツでの制作だったので、いろいろなことがつながってゆきました。

 数年前行っていたソロコンサート「震える石」は、ロシアの詩人マンデリ・シュタームの詩からはじまり、シアターピースシリーズ「砂の舞台」では、震災をはさみ旧ソビエト領内のチュバシ共和国の詩人ゲンナジイ・アイギの一つの詩を私に残しました。「砂の舞台」では、2009年にはモスクワでダンスのアリーナ・ミハイロヴァ、コントラバスのウラジミール・ヴォルコフ、トランペットのアントン・シラエフと作品を発表することができ、東京ではサックスのセルゲイ・レートフと共演しました。そしてアイギの息子アレクセイ・アイギとの「砂の舞台」は、お互い曲を送りあって構成しましたが、震災のため来日がかないませんでした。モスクワでの「砂の舞台」を終えた後、ミハイロヴァさんが、私の一方の出自は韓国で、日本兵としてシベリアに抑留しその後、ロシア人と結婚しシベリアからグルジアに移り、私が体育大学でダンスを学ぶためにペテルブルクに移住したのだ、と話してくれました。とても印象に残る話でした。実は日本から録音して持っていったテクストについて詳しくはみなに話していませんでしたが、このときはゲンアジイ・アイギやマンデリシュタームとともに、韓国人でニューヨークに移住した殺害された作家、アーティスト、テレサ・ハッキョン・チャの「ディクテ」からの引用も多く、自らの移住や移動、両親は日帝時代満州で日本語教師をしていたという出自から、言語、異国語を習う際の身体が感受する暴力性について書かれたテクストで、ミハイロヴァは公演後に私に「だから今日の公演は私の出自にも関わる重要な作品になりました」と呟いてくれました。このときは書道セットを国際交流基金のモスクワ支部でお借りし、舞台美術で使う半紙への書道から皆でリハーサルをはじめたのです(というか盛り上がって予想外の時間を裂いてしまった)。半紙にロシア人のパフォーマーに書いてもらったのは、鳴海英吉さんというシベリア抑留者の詩人の詩の題名です。



 2010年、トルコのイスタンブールで、今回のベルリンでの「デデコルクト」のコレオグラファーでもあるアイディン・テキャルさんとのプロジェクト「db-ll-bass」の制作がイスタンブールではじまったとき、その帰り、イスタンブールのアタチュルク空港のチェックインカウンターでみた風景。ロシア航空会社のカウンターでみたアジアの人々のロシア語とキリル文字のパスポート。滞在中に初めて知ったアルメニアの作曲家コミタス・ヴァルタベットのこと。私にはまったく縁もゆかりもなかった内陸のかの地、コーカサス、絹の道や草原の道そして、石橋幸さんとの活動や、詩人石原吉郎の詩を扱った大岡淳さん演出の舞台「シベリアの道化師」で関心を持ったシベリアや満州。そして20代の頃レッスンに通っていたとき師から伺った韓国のシャーマンや伝統音楽の話。それらがつながって、「道」がみえたような気がして、ついそこに、音のまだ鳴らぬ「音楽」を夢想してしまいました。しかしとにかく、特に中央アジアの音楽についてはほとんど知らず、アルメニアのコミタスをのぞき全くその後も無縁でした。ですから今回のドイツでの、ウズベキスタンやカザフスタンやアゼルバイジャンの伝統音楽との共演、「デデコルクト」は全くの青天の霹靂。言葉の通じないオーケストラで四苦八苦の孤独のなか、アジアの演奏家たち、彼らが話すロシア語、そこではアジア人といる安堵と、さらなる孤独感。そしてオーケストラという「西洋」の制度の渦の中でいっぱいいっぱいでした。


「デデコルクト」での、今回自分なりの視座をもちえるキーになったのは、オーケストラ、指揮者つまり西洋の「制度」でその一員としても演奏したことでした。元来私は西洋のオーケストラで演奏する、という動機が1ミリもありません。指揮者も楽譜も必要ありません。コンサートの後半、ソロパフォーマンスに向かう途中舞台四方を囲むオケピットから抜け出て、カルテットでのパフォーマンスと演奏があるのですが、そのとき指揮者と私が入れ替わり、指揮台を占拠して譜面台にしてページをめくるたびにみんなで楽譜を投げ捨ててゆく(その楽譜は後の場面で、憎悪の対象である異物、怪物テペギョスを誕生させる妖精の妊婦の懐妊と堕胎の歌手のエレーナさんのパフォーマンスで使うというアイデアがアイディンさんにありました)カルテットでの演奏を終え私が指揮台をはなれ、パフォーマンス(一つ目の怪物テペギョスの孤独)します。このアイデアを進言すると、コレオグラフのアイディンさんも、指揮者のファビアンさんもはじめは「えっ、どうして?」という感じでしたが、柔軟に受けいれてくれました。この一連の流れは、人間からモンスターへの変身する儀式でもあると同時に、現代に生きる、そして日本人である私の、西洋社会やアジアの伝統の中で、私が示しうるひとつの態度でもありました。


 帰る日の朝、ホテルで朝食の時、制作のマルクスさんが、今回の公演の映像のための、コーカサスやアナトリアのオフショットの写真をたくさんみせてくれました。田舎や街のとても素敵な風景や人々の顔。都市の広場にたつ威圧的な巨大モニュメント。ドンブラやホーメイのアスカンさんの生徒の子供たちのなんと可愛いらしいこと。部屋に戻り、日が迫った22日に行われる、毎月の石橋幸さんのコンサートの構成や選曲を連絡しなければならないので考えました。今年の冬は石橋さんの紀伊国屋ホールでのコンサートの構成や演出でも参加する予定なので、その準備もあり毎月のコンサートの内容を考えることになっているのです。ベルリン最後の朝は、ロシアの囚人やジプシー、アウトカーストの読み人知らずの歌の歌詞を読んで、出発。10日以上もオケの練習(新曲のオケの練習にこれだけ時間を裂くって、日本ではありえないことで贅沢なことです)があったので、飛行機の中でまだまだ耳からはなれないオケのフレーズや中央アジアの唄や楽器のメロディが耳に残ってはなれない中、今回の音や金時でのコンサートのプランや構成台本を考えていたら、あらためて、あのイスタンブールの空港での風景と夢想がよみがえりました。

 3年前イスタンブールの空港でロシア語を話すアジア人たちを見た。ベルリンでロシア語を話すアジアの演奏家との共演。ドイツの極東ドレスデンはまだロシア語の表記も多かった。壁の崩壊前に教育を受けた東独の私と同世代の人々はロシア語教育を受けているそうです。ベルリンの劇場はマクシム・ゴーリキー劇場!日本でロシア語でアウトカーストの歌を歌い続ける石橋幸さんのコンサート。

 立教大学の演習でユダヤ人のホロコーストについて書かれたゼーバルトの「アウステルリッツ」のために、12月のベルリン滞在では、挿入歌をパウル・ツェランの詩でつくろうと思い、郊外のホテルで夜中に曲をつくり、早朝近くのユダヤ人墓地のある公園と湖を散歩して、メロディーをたしかめました。歌にならない詩で歌を書くこと。そしてブレヒト。

 それらドイツ語で書かれた小説や詩を日本語に翻訳されたものを用いて、ロシアを重要なトピックとして題材にしていた「砂の舞台」の構成を思い出し、「砂の舞台2014」としてみました。そして、「デデコルクト」(秋にはまたツアーとレコーディングがあります)に参加した直後、今回は「あの夢想」の始まりのような気がしています。ドレスデンやベルリンでは毎日、オケのメンバーをのぞいても、ドキュメント撮影クルーも含めれば、30人くらいの人々がリハーサルから劇場にいる日々でした。東京に戻り、オーケストラもありませんが、まずは私の演奏、青木純一さん(生徒とベルリンで公演をみてくださいました。)そして大学でのパフォーマンスでは中心になって私が作曲したブレヒトソングなど、ちょっと変わった難しいを歌ってくれた三木聖香さん、最小限の人数でまずはひっそりと、あの夢想の始まりです。オーケストラでマークさんの作ったビビッドな不協和音やフレーズを演奏しましたが、漂いながら力強くそこにあった中央アジアやコーカサスのメロディをわたしなりに弾いてみるかもしれません。今回は青木さんもベルリンに数日滞在されたので、「デデコルクト」やベルリンのことなど少しトークもできれば、と。

ぜひお待ちしています!

写真は2010年のモスクワでの「砂の舞台」です





 音楽は まだない?

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3月30日(日)二回公演 水道橋 nuisance galerie 14:30~ 17:00~ 特別篇

「アンダ・ハレオ 弾いてください」

 一昨日の夜は、スペシャルゲストの歌手鈴木亜紀さんをむかえてのリハーサル。初対面の鈴木さんに台本を書いていろいろ無理な(笑)お願いし、内林武史さんのオブ ジェとも絡み合いながらのかつてない試み。台本、構成もほぼ完成!詩人、劇作家ブレヒトとロルカを素材に、音楽、映像、美術でいろんなこと起こします。

素晴らしい歌手、鈴木亜紀さんをお招きし、でも、言葉もない、歌もない「無言歌」なのです!

「鈴木さん、アンダ・ハレオ歌ってください!」

さてさて、あとはみてのお楽しみ。

ドリンク料金だけのチャージフリーです。ぜひ!日曜の午後を素敵なギャラリーで!!

nuisance galerie   http://nuisance-tokyo.com/tagged/about

ブレヒト・ロルカ  http://brechtlorca.com/about_brechtlorca.html



  こんにちは。3月に入り、しばらくは演奏の本番仕事が少なく、生活に余裕があるとはけっしていえない身である私には、少なからず焦燥感のようなものを感ぜずにはおれない面もあリ、気合い入れて「ひまびと」に徹してみようとも思うものの徹しきれず。作曲や台本の準備を先行したり、ドイツで共演したアジアの伝統音楽家の友人から毎日のようにfacebookなどで送られて来る、中東やコーカサスの民族紛争の記事を読みながら、ドレスデンやベルリンでの公演でやりのこしたことや、今あらためて、公演では演奏することでいっぱいいっぱいで、まったく私の頭の中から欠けていた視点などを、やはりいま掘り下げてゆこうと思ったり、少し先の仕事の作曲や台本を書き、構成案を始めたり。するとやっと「ひまびと」らしく、たいして深まりはしないはがたくさんのことを考えてしまいます。

 そのせいもあって、先日自分が構成したあるコンサートでは、MCがついつい長くなってしまい、結果的に構成のバランスを悪くすることになって叱られました。そういえば、こうして書く記事も、よく「長いよ〜」と言われたり(笑)することもあります。「お前は、台本でも文章でも考えたこと全部を伝えようとしすぎる傾向がある。だから長くなるんじゃないの、、」と昨日もまたリハーサルの時いわれましたが、ほんとうにその通りだと思います。ふだん大してしゃべらないのに、ちょっとお酒がはいったりすると、「話の前置きが長い」、「たしかにその前置きがあった方が話は面白いんだけど、、」とか、「ブレヒト・ロルカ」の一昨日のリハーサルで、ギターの小沢さんに指摘されたのですが、。だから、だまって音楽を、、ということなのですが、結局、演奏や作曲でも同じだと思います。少しずつ、しかしきちんと伝えるコミュニケーションスキルが欠落しているんですね。現在、少しずつ克服中です!でも、また、長くなってしまいそうな気もします。

  さて、その「ひまびと」期間中は、具体的にはブレヒト・ロルカの台本をつくったり、構成や演出をする予定になっている年末の石橋幸さんの紀伊国屋ホールのコンサートに向けて、毎月のコンサートの構成を考えたり、もろもろの作曲や編曲をしていたのですが、ドイツで共演したアゼルバイジャンの伝統楽器ケマンチェの演奏家メフリさんからよくメイルがきました。彼女もほかのアジアから演奏家とおなじくロシア語、トルコ語でお話しになるので、ドイツではほんとうに挨拶する程度でしたが、よく解読不能なところもある英語でのメイル(グーグル翻訳を用いての英語と書いてありました)が時折。

 アゼルバイジャン、アルメニア間にある国際民族紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)に関するレポート、それに関するレポート、それと先日の「デデコルクト」での私たちのパフォーマンスとの関係に関する感想を求められたり。でも私からレスポンスすることは、繊細すぎて本当に難しい。しかも英語では語るべき言葉が余計に見つかりません。「政治と音楽はおなじことです」。彼女は言います。しかし、彼女に限らずですが、ドイツでは、彼女たちの音楽、演奏から、たとえば、政治に翻弄される体験のなかで、政治とは無縁の純粋さの美や力を強く感じていたので、驚きました。「純粋」などと簡単に括ろうとした自分の感性の安易さにも辟易します。かつてのソ連邦であったり、さまざまな国際社会の政治に翻弄され、利用されつつ、誇り高く守られてきた伝統の美や力の、儚さと強靭さの同居する音楽、音色に、私の心は揺さぶられていたのでしょう。

 あるときは、「あなたの演奏からはムガーム(アゼルバイジャンの音楽形式やいくつかの旋法)を感じるので、ぜひ私の父が体系づけたムガームに関する本を送りたい」と。ムガームとは、ひろくアラブ、中東、中央アジアで用いられる、音楽の形式、理論で(マカームと総称されたりします)、そのアゼルバイジャンでの形式と呼び名です。先日の公演では、私はなかでもウズベキスタンのやはり同じく、シャシュマカームという理論に興味を持ったので、ムガームやシャシュマカームについて、まずはインターネットや図書館で、それらについての数少ない文献を探して読むことに熱中しました。

 一方で同じく先日のドイツの公演で、私が苦しんだ西洋のオーケストラ。つまり指揮者の存在する音楽です。これももう少し指揮法でも理解した方が10月の「デデコルクト」再演ツアーにもよかろうと思い、指揮法の入門の資料を眺めたり。作曲家一人の頭の中で生じた膨大な情報量をどのように指揮者が交通整理し「演出」しリプレゼンテーションするのか、自分がもし大きな編成の作曲をするということを想定すると、やはりその存在の重要性をあらためて思います。そして反対に、ずっと以前にふと思ったことを思い出します。私の親戚に指揮者の故岩城宏之さんがいて、生前、チケットをもらい、氏の振る、ギリシアの作曲家クセナキスの大編成オーケストラを見に行きました。その時は、音楽は素晴らしかったのにも関わらず、この音楽に指揮者がいなかったら、いや、クセナキスが書いた音符を越えて、どんな音楽になり、その出来事はどんな意味をもつのだろうか、とあのとき考え、実はそう考えることの方が楽しかったのです。

  最近は、コンサートやパフォーマンスの舞台の、構成や演出、台本を書いたり、音楽でも作曲をする機会が多いです。それは、20年近くの活動の中で自然と蓄積されてしまった経験や、考えやアイデアを、より具体的に具現化したい、という私自身の創作欲求であることも自覚します。やはり、客観的な立場から出来事を「作品化」するにあたり、「演出」やら「コンダクター」の存在の重要性はよくわかります。たしかに私の場合そういうことしながら同時に自分でも楽器を弾くことも多いので、もっと客観的な立場から出来事をデザインすればよいだろうと思うし、学生の授業のときのように、楽器をほとんど弾かないで台本を書いたり演出したりすることのほうがいろいろスムーズだということも痛感します。
 
 一昨日もブレヒト・ロルカ、そんなことを話しながら30日の公演について話し合っていたのですが、たとえば前世紀のアメリカで誕生したジャズバンドやロックバンドのように、あらかじめ、そんな「客観」が存在しない音楽が好きでしたし、そういう自立した個が自立しながら拮抗し均衡し、補い合っている音楽、つまり自治の空間にあこがれました。そんな、ある意味「客観性を欠いた」エネルギーや出来事、感情や感性の自立のようなものを信じたい気持ちが今なお根底にあります。そしてその出来事が生成されるプロセスの空間。

 その空間では、ひとびとが助け合い、補いあいながら、慈しみながら、生まれ、死んで行く。ただそれだけのことの困難さ。困難なら、そんな気持ちが先立つ土壌を築くこと。前者を音楽と呼び、後者を政治というのだろうか?いえるのだろうか?どちらが先か、鶏と卵。結局そこが、私が「音楽のような」ことをし、「政治のような」ものについて考えつつ、しかし「音楽と政治は同じこと」かどうか私のなかの曖昧さなのです。

  ベルリン滞在中、「また聞き」だったのでだいぶニュアンスは変わっていると思いますが、アゼルバイジャンのメフリさんは、先日のドイツでの「デデコルクト」では、はじめ、舞台の上でなにか「悪」のようなものが演じられ、演じることに強く抵抗を覚え、不参加も考えたと言います(あとからそれに関することもメールで言及していました)。それは、そのイスラム寓話のなかで、異教徒や悪や不浄の象徴として描かれた一つ目の「テペギョス」というモンスター。そして彼女にとって、メイルのやり取りからそれは、アゼルバイジャンとアルメニアの民族紛争におけるアゼルバイジャン人虐殺によるコジャリのレイプを想起させるものであったのです。

 私はそのテペギョスの動物性そして、半獣、不具者の孤独を「演じた」。私はその意味を「了解」し、私がただ独り大陸から陸続きではない日本人であることも考えつつ、「演じた」。つまりそれをドイツのブレヒトのやり方に近いやり方で。しかしトルコ人のアイディンさんの振り付けは私に即興を要求する。私と彼女が舞台で音楽を演奏することにどんなの違いがあるのだろう?しかしもちろん同じところもたくさんあるわけで、そもそも違いを二項対立させ、止揚させるのは西洋の代表的な考え方です。アルメニア系トルコ人作曲のマークさんは舞台の構造にそれらを重層的に作曲で表した。そしてメフリさんは、オーケストラのなかでひっそりと伝統のムガームの即興で幽けき音をケマンチェで弾いた。

 このように、「デデコルクト」のようなインターナショナルなプロジェクトのあとなので、「ひまびと」であった私はいろいろ思ったのですが、ずいぶんと私自身をも含め、人々のことを、民族や歴史というフレームのなかで考えすぎているような気もします。社会と一人の人間との間には、家族や共同体、民族、国家というものがより複雑に存在し、「社会」というものは実は実体のないものです。

  一人の人間。一人の人間である「私」を「演出」することの困難さの中におびえながら常にいるのだ。
 そういう自意識の時代に、、メフリさんや、ウズベキスタンのタイールさんや、カザフスタンのウルジャンさんや、アスカーさん、彼らそれぞれの人間が出した音たちや、即興でいれる彼らの小さな合いの手やかけ声が、風のように入り込み、しかし通り抜けずに、いまわたしの身のなかで鳴り止まぬものとしてあることは救いなのかもしれません。

 台本を書いていても、作曲していても、演奏していても、即興していても、演出していても、いや、生活そのものが、いま、ここで、音楽をすることの意味、音楽が存在することの意味、そういうことを問い続けるような、そういう、「音楽以前の音楽」しかできないような気が私にはしています。そういう営みが、意味さえも消滅させ、いつか「音楽」というかたちになるのか、いや、「音楽」というフォルムを求めていないのかもしれません。「音楽」という言葉を「人間」に置き換えて、そのような問いの空間をいかに演出できるのか、ということが私のささやかな「仕事」かもしれないなぁ、と思いつつ、、。音楽はまだない。

 そんな私がいま、一番「音楽」を感じるもの。








演奏の予定です ぜひ! 

3月20日(木)白楽 ビッチェズブリュー 金子雄生(tp)即興演奏
 3月28日(金)西荻窪 音や金時 石橋幸「ロシアアウトカーストの歌」構成
 3月30日(日)水道橋 ヌイサンスギャラリー ブレヒト・ロルカ 特別篇 
 「アンダハレオ 弾いてください」脚本、構成
 3月31日(月)新宿 ウルガ  石橋幸「ロシアアウトカーストの歌」

4月6日(日) 渋谷 saravah東京 ダた
4月17日(木)渋谷 クラシックス ユニマルカ
4月19日(土)蕨 タタミスタジオ 暗闇ワークショップ
4月20日(日)新宿 ガルガンチュア  石橋幸「ロシアアウトカーストの歌」構成
4月21日(月)神田 楽道庵 ダンスワークショップ
4月26日(土)高田馬場 プロトシアター 遠藤寿彦(ダンス)入間川正美(チェロ) 即興演奏

 

「おれたちのうんこききやがれ」 4月6日(日)ダたライブ 「ダたはギリギリを行く」

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 4月6日(日)ダたライブ 「ダたはギリギリを行く」  19時〜 

渋谷saravah東京   東京都渋谷区松濤1丁目29-1 クロスロードビル B1

ダた  http://kunihirokazuki.com/data/index.html


 国広和毅_guitar,vocal...etc.
 小林武文_drums,percussion 
 河崎純_contrabass
 斎藤丈二_guitar



 国広くんから、今回のライブのタイトルを聞いたときは、一瞬、意外な感じがした。
「ダたはギリギリを行く」。ホームページをみるとダたは18年くらいやっていて、私が参加するようになって16年!16年いつもダたはギリギリだったような気がするから、いまあらためて、というか。また、それは僕自身がいつも「際」のような場所に身を置いているつもりで音楽をしながら、それでもそのギリギリの「際」のような場所を自ら設けてゆくことの安穏さ、というか、自意識というか、そういうものはなんだろうと、思い続けてもきた。

 「際」といえば、忌まわの際、生死の際がそのメタファーとしての源になるわけで、つまりそれは音楽でいえば、音の誕生や消滅についてであり、いま現在、生を存続中の自分が生と死を想起しながら、死を「待ち」ながら生を「演じ」ていること(あるいは生を「待ち」ながら死を「演じ」ていること)への、自らの客観的眼差しへの居心地の悪さのようでもある。しかしそう思うと、私自身が音楽をするということは、「待つ」ということと「演じる」ということにつきるのだなぁ、と改めて思うのです。

 それに対して昨年の今頃公演していたバタイユの「消尽」「蕩尽」などという言葉も思い出すが、自然や太陽が常に爆発をしつづけているようなエネルギーの連続する運動、その瞬間のエロス、エロスの連続体としての動物のようなものを一方で想う。いや、一方ではないのだが、つまりそういうものを「演じる」のもまた人間である、ということだろうか。

 今日はダたのライブのための「リハーサル」をしたのだが、とにかくそういうエネルギーを目一杯つかったので疲れ果てて夕方家に帰り、うっかり23時頃まで眠ってしまった。眼をさますと、まだ雨が降っていて、春雨というよりはやや強い雨足で、これだけ雨が降るのは久しぶり。雨がたくさんの音をつくっていて、耳が冴えてしまってしかたない。僕はいま3カ所別の方角に窓のある場所に座ってパソコンで書いている。窓は閉まっているけれど音が聴こえる。あたりまえだが雨自体に音はない。雨が打つ音。

 いま、内田百間の「件」という小説の舞台公演のためにドイツ人のヴァイオリニストが弾くヴァイオリン独奏曲の作曲をしていて、その続きをしなくてはならなかった。最近はずいぶん歌の曲をつくっていたので、今回の仕事はヴァイオリンだから、人間の声域より高い音で音楽をつくらなくてはならないのだなぁ、、。音域的に歌いながらつくれないから、鳴っていない音に耳を澄ませて、頭の中で何かを想像して創造するしかない。歌をつくるときとはカラダの使い方が違って来る。コントラバスはその逆だから、その逆を思えばよいのかな。でもコントラバスは、20年くらい毎日のように弾いているので、私にとってはカラダの延長みたいなものでもあるともいえるし。人間はそうして、何かのために、神を信じたり信じさせたりするためだったり、自然と闘ったり仲良くするために、人間以上の人間としてコミュニケートするために、とても高い音やとても低い音を使って音楽をつくった。

 僕もそうやって音楽を作っている。私などのように「音楽家」という存在がたくさんあふれている時代だ。音楽はつくられすぎた。人はほんとうはそんなにたくさん音楽を必要とはしていないはずだ。僕は音楽家だから自分でもたくさん音を出しているから余計に、自分や人が作り出した音や音楽に疲れ果ててもいる。でも、音を表すことはやっぱり気持ちがよい。所詮たまった糞や毒を排泄しているようなものかもしれない。それでもなお美しいうんこを出していたいという欲望がないではない。そのためには健康であるべきか。

 健康ということについて考える。ここ数年CDや本というものを購入することはほとんどないので、仕事で必要なものを読む以外は、昔読んだ本などを、電車の移動、換気扇の下で煙草を吸ったり、お風呂に入るほんのひとときを埋めるため程度の読書だ。そのひとときを埋めるために読めるような本を本棚から選ぶのだが、なんとなく高橋悠治さんと坂本龍一さんの「長電話」という対談集を手に取った。それはとても80年代的な本で、ちょっとそのセンスに懐かしさと恥ずかしさを覚えてしまうのだが、現在、やはりコンサートのためにリハーサル中の柴田暦さんとユニット(こちらも気づいたらもう10年近く)UNI-MARCAで、アレンジなどでお世話になっている作曲家の三宅榛名さんのことが書いてあって、榛名さんの音楽を坂本龍一さんが「新しい健康」と表現していて、なるほどと思った。その「健康」というのは努力してつくりだした「新しさ」だと。それに対して、表現や芸術的行為のなかでは、健康でない方向に行く方が簡単だから、つい自然とそっちに向かってしまうものだと。とてもよくわかります。病であるとか不可能性とか、困難だとか、カオスとか、生がポジティブなものだとしたら、反対に死を拠り所にして、仮初めにも「不健康」を志向する傾向がある。そういうものごと、むしろそういうものの中にしか可能性はないという、ある種の負のエネルギーやコンプレックスを根源として、逆説的にとらえることもあるが、いずれそういう行為や思考の観念性を深めたり、表現がそこに停滞してしまったりするということだろうか。私もそういうところを自覚せざるをえない。時代もあるかもしれない。都会では特にそうだし、男性は特にそういう傾向にあるともいえるだろう。「生」というもののヴィヴィッドさをクリアにする努力をしないと「新しい健康」は生まれないと思う。

 こんなことを書いたり、思い出したりしていたらいつのまにか雨がやんでいた。窓は閉じているから、こんな都心の部屋の中でも夜更けだからさすがに静かだ。その静けさがうるさい。

そうだ、うんこといえば、金子光晴の有名な詩を思い出した。

 
    恋人よ。
    たうとう僕は
    あなたのうんこになりました。

    そして狭い糞壺のなかで
    ほかのうんこといっしょに
    蠅がうみつけた幼蟲どもに
    くすぐられてゐる。 

    あなたにのこりなく消化され、
    あなたの滓になって
    あなたからおし出されたことに
    つゆほどの怨みもありません。

    うきながら、しずみながら
    あなたをみあげてもよびかけても
    恋人よ。あなたは、もはや
    うんことなった僕に気づくよしなく
    ぎい、ぱたんと出て行ってしまった。


 そこに、うんこだけがある。人間の排泄も時に美しいではないか、とも思ってしまう。この詩が収められている本のタイトルは「人間の悲劇」だが、、。

 今日ダたのリハーサルで、自分が出した音さえ聴こえなくなるギリギリのくらいのところ(音量の大きさではない)で、カラダから楽器から音をたくさん出した。出た。そういえば、2000年にダたは「temesiaコンサート」というのをやっていて、それは排泄にまつわる音楽だ。「僕」は「t」で噛み砕かれ、僕になってゆき、「僕は出る」といってうんこになって「a」からでてゆく(たしかテナーSAXを口にくわえながらK君が歌った)のである。

しかしなんといってもやっぱり「際」で「ギリギリを行く」という「リスク」は単純におもしろい。

来る「間」があっても「行く」。歌と歌との間、際のところ、「間」で音を出している(奏でている)。なぜなら「面白いことが好きだから」。

蛇足ですが、「間奏」だって詩ですからね!

くるま  (国広和毅)

わたくし達は考える
時間がなくても考える
あの手この手を使っては
面白いことが好きだから

間奏

昔の人は移動する
車がなくても移動する

間奏

あれよあれよと時がたち
あれから千年二千年
いろんな人が死んだあと
わたくし達が生きる今
わたくし達は考える
お金がなくても工夫して
ああとかこうとか言いながら
どうにかこうにかやり通す

間奏

千年たっても車ない
それでもなんとか続けてる
面白いことが好きだから

2014年4月17日(木)

uni-marca/ユニ・マルカ 「四月に夢を見るとして」

19:30start (19:00 open)
公園通りクラシックス




- 柴田暦 (vocal) -河崎純 (contrabass)

at:公園通りクラシックス(080-6887-5957)
渋谷駅徒歩5分/AppleStore向かい/山手教会B1F
 http://k-classics.net/
charge:予約/2,700yen 当日/3,000yen


2014年4月19日(土)蕨タタミスタジオ

都市に声の森をつくるワークショップ クラヤミノtones 





http://www.bfrec.com/tones.html

テーマ「コントラバスと一緒に低音を極めてみる」
コントラバス奏者、作曲家の河崎純氏を」むかえて、
人の声を超えた領域が出せるコントラバスを完全暗転の中
で丁寧に聴きながら、音まねをしたり、コラボしたりできる
ワークショップです。楽器と共に声の可能性を学べます。

■料金:予約2,000円、当日2,500円  
■場所:〒333-0847 埼玉県川口市芝中田1-6-12 2Fタタミスタジオ(京浜東北線 蕨駅から徒歩8分、蕨駅まで池袋駅から電車で約20分) 
■お問合せ:TEL:03-6317-3999(9:00〜18:00)


ヤンさんのヴァイオリン 5月17、18

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文学を、体感する。
川口市が誇る歴史的建造物で、朗読と音楽と美術が出会う。朗読者 in KAWGUCHI 第4弾!

2014年度のスタートは、鋳物工場から。
黒澤明監督作品「まあだだよ」の原作者・主人公モデルとして知られる内田百間(本来は門がまえに月ですが、記事に文字が反映されませんでした)の世界を体感してください!
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【作品】内田百?「件」
(あらすじ)
⻩⾊い大きな月の下、
⾒果てもない広野の真中に、
私は⽴っていた。
顔は人間で体が牛の妖怪、‘件’として。
人々が私の周りに集まって来る。
人々が私に期待している。
嗚呼私は、
   ―どうしていいか解からない―

【日時】2014年5月17(土) /18日(日)
       両日共に17:10開場・17:30開演 
【料金】1000円

【出演】奈佐健臣/ヤン・グレムボツキ(ヴァイオリン)
【演出・美術】北川原梓
【音楽監督・作曲】河崎純

【会場】KAWAGUCHI ART FACTORY 
       埼玉県 川口市元郷2-15-26
       http://www.art-kouba.com/
    
■ご予約方法■
□朗読者 in KAWAGUCHI ホームページ
http://www.art-kouba.com/roudokusha2/
https://www.facebook.com/events/622069744535121/

□FAX:048-222-2024
お名前・ご住所・電話番号・ご希望公演日、人数を明記の上、上記まで送信ください。

※電話でのご予約お申し込みは出来ません。
※未就学児童ご入場はご遠慮ください。

■お問合せ■
□朗読者 in KAWAGUCHI 実行委員会   
川口市元郷2-15-26 KAWAGUCHI ART FACTORY 内  
tel : 048-222-2369/ 090-3080-4234(担当 金子)  
mail: webmaster@art-kouba.com



こんにちは。地元川口市でのイヴェントです。俳優の奈佐健臣さん、演出、美術の北川原梓さん、気づけばここ数年ずいぶんご一緒させていただきました。はじめは演劇公演で音楽を担当しました。慣れない下北沢の小劇場での公演でたいへんでした。その後は、稲垣足穂「一千一秒物語」、谷崎潤一郎「刺青」フリオ・コルタサル「夜あおむけにされて」。ずいぶんと質感が異なる作品に音楽をつくってきました。今回はヴァイオリン独奏のための曲を8曲ほどつくりました。独奏楽器へのまとまった作曲は久しぶりでした。私自身もふだんコントラバスの独奏をしますし、舞台の音楽をコントラバス一本でやることも多く、それらの作業からずいぶんと発見することが多く、表現の幅もひろげてもらいましたので、独奏楽器への作曲は特別です。以前も書きましたが、こうしたテクストから音楽をつくることは、私にとっては一曲の音楽の曲のレパートリーを練習することや、即興演奏では得られないことでした。いつからからか、演奏だけでなくこのような舞台音楽の作曲をしたり、台本を書いて構成などもするようになって、舞台の音楽は、勝手に自分の専門領域であることを自負して、一方でそれは純粋に一からなにもないところから音楽を作ることが私にはできなくなってしまったのかもしれない、と危機感をおぼているここ数年です。そういう才能がもとからなかったのか、枯渇してしまったのか、、。まぁ、いっか。

 今回も朗読者シリーズでは会場とすることの多い、川口アートファクトリー。そして、今回からシリーズの音楽監督として、より深く関わることになったため、まずは演奏者探し。ヴァイオリン、それからできれば川口近郊の在住者。というリクエスト。地元でそれほど音楽家の知り合いがいないので、いや、こまったなぁ、とおもっていたところ。偶然がおりてきました。ドイツのハノーファ出身のヤン・グレムボツキー!近所の実家にたちよったとき、たまたま母が知り合いに連れられて行ったという地元のホールでの音楽会のチラシをみると、ヤンさん、なんと現在私と同じ蕨市在住。さして音楽好きともいえない母にどんなコンサートか内容を聞き、もう直感でつてをたどってヤンさんにコンタクト。その後我が家で打ち合わせ。快く引き受けてくれました。

 この作品では、アジアの内陸の乾いたメロディー、さらにそれが風に吹かれて粉々になったようなイメージでつくりはじめました。リハーサルではヤンさんは複雑な譜面をひじょうに丁寧に弾いてくれたので、あとは少しずつ崩し、ならして行く作業。はじめの打ち合わせのとき、実はあんまりアブストラクトなものは好きじゃないんだ、と告白してくれました。もちろん、バルトークはもちろんイサン・ユンやそういう現代曲も弾きこなすエリート。僕はロマン派が好きなんだ、と私は知らなかった作曲家のことも教えてくれました。でもやってみる、といってくれました。私ももちろんロマン派のようには書けないし、イザーイみたいなヴァイオリン奏者が作った機能的なアルペジオの曲も到底書けないし、中東などのアジア独自のヴァイオリン文化も模することもできない。ただただ、最初のイメージに忠実に、そして、作品の質感や、朗読(といっても奈佐さんは、毎回朗読する小説を一冊まるまる暗記しています)とのかぶりを気にしながらつくりました。

 私とヨーロッパとの関わりは、やはり抽象的な即興とか、現代音楽の音楽家が多いです。先日のベルリンでのデデコルクトのオーケストラプールであるドレスデンシンフォニカーの面々もそうである。みんな新しい曲を弾くことが大好き。初演からではなく、ベルリン公演から参加したこのオケへの初参加だったという、トロンボーンの若い青年アンドレアスは、こんなオケで演奏したかったんだ、と目を輝かせて僕に語ってくれ、熱心に指揮者に尋ね、難しいラインを時間をとって二人で練習した。明日、みんなの集合時間の30分前に集まろう、と。こちらは、彼らのような西洋音楽の伝統もスキルもなく、四苦八苦でしたから、願ったりかなったり。みなインプロヴィゼーションも得意そうだった。だから、こちらもついつい、ヨーロッパの方との演奏というと、無条件にそういうことを期待してしまうものだ。でもヤンさんのようなアプローチが、伝統というか、本流なんでしょうね。代々作曲家の親をもち、妹はオペラハウスの歌手(写真をみせてもらいました)だそうです。やはりそういう伝統への愛情を強く感じました。バッハは聖典、パガニーニは神様。

 さてここからがコラボレーションの醍醐味です。わたしもバッハは好きでずいぶん弾いてきたけれど、聖典ではないし、パガニーニも無縁、いやむしろ正反対か。少しずつ少しずつ。小説の質感を大事にしながらつくり、練習を重ね、昨日はついに会場での初リハーサル。蕨駅で待ち合わせて、川口や鋳物工場、映画「キューポラのある街」の話など、拙すぎる英語で話しながら。ヤンさんの奥様は、韓国の方で、ペルシャ文化の研究が専門で、ドイツでであったそうです。はじめてあったとき、その名前から、もしかしたらポーランド出身かな、と思いヤンさんに尋ねると、やはりおじいさんはポーランドからきたそうです。もちろん、すぐににユダヤのこと、その音楽について頭がよぎり、そういうことも聞いてみたかったけれど、少しずつ知ってゆくことが大事かなぁ。映画はもちろん、戦後の北朝鮮(あるいは大韓民国)への帰還がテーマですから、そんな話も歩きながら。鋳物工場の跡地であり、そのしみこんだ汗と錆びの名残そのままなファクトリーの中で、ヤンくんのヴァイオリンが風のように、そして少しいびつに響いたのでした。ヤン君、風変わりな曲を弾いてくれてありがとう!!わたしも少しだけコントラバスを弾くことになりました。

 奈佐さんの端正な朗読、ヤンさんのヴァイオリン(私の曲以外にも一曲イザーイの無伴奏バイオリン曲から「オブセッション」も演奏します。これは貴重です。)、場所を生かした美術、照明、そしてわたしのコントラバスも少し。ぜひいらしてください。きのう新聞記者の方のインタビューにこたえながらふと、思ったののですが、言葉や音が古いこの工場のいろいろなディティールに光があてていたように思いました。生きている場所なんだなぁ。ここがかつて過酷ともいえる労働と生活の場であったこと。数年前、別の場所ですが、当時は稼働していた鋳物工場で音楽劇をつくったときは、俳優や私も一日掃除や鉄割りのお手伝いをさせていただいたことがあります。私たちが公演を終えて、その場で、火を焚いて、朝まで飲めや歌えの宴会をしていると、もう日が出る頃にはもう70を越えるであろう職人さんや、どこかアジアからの労働者がやってきて仕事の準備をはじめました。少しは酔もさめました。

新聞記者の方の取材を待つ間、 初の会場リハーサルが終わり、安心して、コントラバスを弾いたり、少しぼーっとしていると、ついついすでに次回作の構想を。まだ作品ができてもいないのに不謹慎かな、と少し躊躇したけれどつい口に出すと、演出の北川原さんもいまそれを言おうとしたところでした、とのこと。いろいろ生きてるだけで大変ではありますが、やっぱり作り続けていたいなぁ、と。 この作品が終わると、舞踊「道成寺」の音楽、大学生の発表の演出や作曲、今期はなんと、チェホフの「かもめ」パウル・ツェランの詩、謡曲「黒塚」から台本を構成しました。おなじ川口つながりでお世話になっているタタミスタジオの、エアロヨガのための音楽、石橋幸さんの紀伊国屋ホールでの公演の構成、演出、ブレヒト・ロルカのつくばでのワークショップコンサート、演奏で参加のデデコルクトのワールドツアーなど、いろいろ舞台関連の活動が続きます。今年は仕事が少なめで、少し余裕を持って仕事してますので、やはりじっくり作れて充実します。反面、生活は厳しいですが、、なんとか。そうそう、先日そんな隙間を縫って、演奏のレコーディングの仕事。現場で楽譜を渡されると曲名が「きのこの山、たけのこの山」と「じゃかチーズ」。あはは。とある会社のCM.。そんな日々の音楽活動の記、でした。

みなさま5月17、18ぜひ川口に!!


ヤン・グレムボツキ Jan Glembotzki(ヴァィオリン)



4歳の時にピアノを、 2年後にバイオリンをはじめる。芸術家一家(作曲、俳優やオペラ歌手)で育ったヤンは、ハノーバー音楽大学でヴァイオリンの修士学位を取得。
Krzysztof Wegrzyn (旧ハノーファ国立歌劇場のコンサートマスター、「国際ヨーゼフヨアヒムヴァイオリンコンクール」の創設者)、Jutta Rübenacker-Müllerに師事。
ドイツ、ノルウェー、西アフリカ、日本、ポーランドを含む様々な国のソリストとしてだけでなく、室内楽奏者として、国内外の公演。ジャンは、このようなNDR放送交響楽団、プレーブレーメンフィルハーモニック管弦楽団、ヨーロピアンフィルハーモニー管弦楽団で演奏。

コンサートにぜひ!

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 今日は久しぶりに、即興演奏のコンサートです。ピアノの新井陽子さんとヴォイスの利根川おちょこさん。今夜がどんな演奏になるのかわからずに、夕方電車に乗って会場へ向かう、そのような感じは、最近の私にはあまりあることではありません。あるがままに。前回こうして即興演奏のコンサートに向かったのは、4月のチェロの入間川さんと、ダンスの遠藤さんとのセッションでした。即興演奏の中に自分の感じていることや、考えていることが全てあらわれ、さらにはそれを越えて行くことを強く求めていた頃に比べると、かえって即興演奏という場のかけがえのなさが、クリアになったような気がします。
 雨が降ると楽器の運搬が大変なので、今日は降りませんように。


 いつもは、本番や練習に向かう直前まで家や電車で、その台本をつくったり、作曲をしたり、楽譜をチェックしたり。高度なことはあいかわらず何一つできないけれど、ずいぶんノートパソコンのお世話になっています。今日は即興にそなえて出かけるときは置いてこうかしら。

  今月、来月の活動はなかなかバラエティにとんでいます。ひさしぶりに公演予定をブログにアップします。いろいろありますので、ぜひ!


ブレヒトとロルカ ワークショップコンサート  つくば 千年一日珈琲



6月22日(日)   http://1001coffee.jugem.jp/?cid=6

出 演:河崎 純(コントラバス)
    小沢 あき(ギター)    
    三行 英登(映像)
日 時:2014年6月22日(日)
    ワークショップ 16:30-18:30
    コンサート 19:00 oepn/ 19:30 start
料 金:ワークショップ+コンサート 一般 2,500 学生 2,000
    コンサートのみ 一般・学生 2,000
会 場:千年一日珈琲焙煎所(つくば市天久保3-21-3 星谷ビル F/G)
予約・問い合わせ
メール 1001coffee@gmail.com  電 話 029-875-5092


  ここ数年、ソロの演奏でつくばで演奏してきました。その拠点の一つが 千年一日珈琲。以前からなにか地元の方達とワークショップをして舞台をつくりたいね、と話し合っていましたが、「ブレヒトとロルカ」という形でついに実現。その第一弾ととらえています。ブレヒトとロルカ、二年くらいの間にずいぶんコンサートがありました。その度ごとにアングルを変え、コンセプトを発展させ。正直煮詰まりました(笑)。内容を準備し始めて最初のうちはここのところいつも、そう思います。しかし3人で話し始めたり、もう一度ひとりで弾き直してみると、やはりいろいろ発見が多いです。追創造、二次創作ともいいますが、ブレヒトのとりわけアイスラーなどが作曲した音楽はやはりその宝庫だと思いました。一見、一聴、なんの変哲もない(特にブレヒトのドイツ語の原詩はすぐにわからないので)、「貧しさ」をたたえるような音楽や歌、リズムは、新しい創造を生む源泉です。音楽のありようとして、こういうあり方もあるのだと思います。他者の創造を具体的に膨らませる音楽。そういうことを共有する場として、ワークショップという場は適しています。そしてロルカ。先日、あるフラメンコのドキュメント番組をみていて、あらためて、その深さ、ドゥエンデ?に、たじろぎ、それゆえ改めて今の私の「生活」との距離感に呆然としました。関われない、関わっては行けない領域に思えました。特に歌。「あそこのパン屋の娘の金色の髪の毛は美しい、そしてパンの焼き色のように焦げて」と、そんなような歌詞を1分くらいかけて歌い込む。

 あるとき、言語の音素数を調べてみると、英語やドイツ語はかなり多く40〜45。それに対し、スペイン語は少なく20程度。豊かな、歌やメロディは言語の特性と言葉はきりはなせないものでしょう。そして日本語は、というと25くらいでやはり少ない。詩を和歌を吟じるということを思います。たとえばそのようなメリスマティックに一音に変化をさせながら言葉を吟じるのに対し、ドイツ語や英語の、語るような音楽。ラップやドイツのシュプレヒゲザング(語るような歌い方)。一音を変化させなくても数多くのニュアンスや響きを生む言語。「空にしずみ、海に浮かぶ」という作品のため、同じ詩で、英語原詩と日本語訳にメロディをつけました。英語の詩の方がどんどん作曲できます。母語ではない言葉へのこだわりのなさともいえますが、そういう言語の特色も影響しているのでしょう。また、そうして作られた音楽に感覚をずいぶん馴らされてしまっている、ということもできるでしょう。


最近「道成寺」の舞踊のために、ずいぶん熊野の話を聞きます。神仏習合や本地垂迹。八百万の神と仏様。ジプシー、ユダヤ、イスラム、カトリック、、、なにか紀伊半島とイベリア半島がだぶってみえてくるようでした。ユーラシアの東の孤島と、西端。遠のいたロルカがまた近づいてきました。

 ブレヒトのアメリカ亡命時代アイスラーが曲をつけた「小さなラジオ」という曲があります。1940年頃でしょうか。もうその頃ロルカは虐殺されています。亡命の孤独に加担するラジオの音声。ふと気になって、テレビやラジオって、その頃人々にとってどんなメディアだったのか、調べてみると、ブレヒトやロルカの生まれた19世紀後半にそれらは開発され、実用化は1910年くらい、日本では大正11年にラジオの実験放送が開始し、12年が関東大震災です。テレビはアメリカで1941年だそうです。ラジオというだけで、ノスタルジックなメディアであると感じますが、当時の最先端のメディアに亡命の孤独感を重ねていたということです。こんなこともインターネットを使ってお手軽に調べたりしていますが、、。ブレヒトとロルカといって、その「貧しさ」や「豊かさ」が現代のメディアのスピードに有効に呼応するなにかが、あるのだろうか、とやりながらふと思ってしまうこともありますが、それをたしかめ、一つの場ができあがることの可能性に期待を寄せて、つくばでワークショップコンサートを行います。もちろん東京や埼玉からもぜひ!




ダンス ワークショップ 

 神田楽道庵

7月7日 8月4日 9月1日  http://www2.plala.or.jp/rakudoan/

私のいろいろな活動では、歌でたとえると、ひとりで歌う歌と合唱の間にある出来事をとらえなおすような感じ、と自分で思っています。ダンスの活動はみなさんソロ活動がとても多いように思えます。さまざまな事情もあると思い、目の当たりにすれば、その自己探求にはいつも感服してしまいます。しかしちょっと遠目から見ると、そのインナートリップが少し、閉塞感、窮屈さを感じさせないでもない。このワークショップを通じて、振付けられた群舞や即興的な独舞とも異なる、ダンス作品を音楽家の視点で演出してみなさんと作品をつくりたいなぁ、と密かに目論んでいます。ダンサーじゃない方もたくさん来てくれると嬉しいなぁ。


即興演奏


6月18日 四谷三丁目 喫茶茶会記   20時から 2500円(1ドリンク付き)

本日!  新井陽子(ピアノ)利根川おちょこ(ヴォイス)

 以前(いつの間にもう10年くらい経ってしまいました)両国のシアターXで、「詩の通路」という企画を運営していた時、コンサート、ゼミでも新井さんに、いろいろアドヴァイスをいただきました。いまいろいろやっている活動はあのときの経験がずいぶん役に立っています。


7月12日 水道橋 ftarri
新井陽子(ピアノ)秋山徹次(ギター)高橋保行(トロンボーン)

午後7時開場・開演
『その日の音楽 〜 improvised music for "that" day 〜』
2,500 円
主催:新井陽子
この日のお店の営業時間は、午後3時30分から7時までとなります。

 韓国のピアニスト パク・チャンスさんの企画で、韓国、中国、日本、で同時開催される音楽イヴェントです。そして高橋さん!やはり「詩の通路」公演でお世話になりましたが、なんとその時以来だからやはり10年ぶりくらい。飲んだくれました!朝方両国の駅のホームでトロンボーンを置き去りにしそうになる姿が高橋さんをみたさいご。あはは。


8月7日 明大前 キッドアイラックホール  http://www.kidailack.co.jp/
花木久実(太鼓)

花木さんとも10年ぶりくらいです。凛々しい太鼓です。

花木久美 Hisami Hanaki 太鼓SESSION 2014
時間:開場19:30 開演20:00
料金:前売2000円 当日2200円
予約・問合:キッド



舞台音楽 (舞踊)
 

7月15(火) 16 (水)日  「道成寺」 もうひとつの物語・清姫の真実 ひめしゃら塾公演   仙川 せんがわ劇場

http://www.sengawa-gekijo.jp/   

15日19時 16日14時 19時 予約3000円 当日 3500円 学生、こども 2000円

ひさしぶりにコントラバス演奏中心での舞台音楽。演出の今井尋也さんの小鼓とともに。ここのところ和物の古典作品に関わることが少なかったので、今井さんから日本、熊野の神話や宗教の話をききつつ、自分で調べたりするのも楽しみです。いっぱい演奏します!


演出・構成作品


立教大学前期演習発表  立教大学池袋キャンパス

詳細 kawasaki_jun6@r7.dion.ne.jp

7月8日「かもめ 悲劇」(チェホフ「かもめ 喜劇」 とパウル・ツェランの詩、謡曲「黒塚」)

 黒いカモメ、喪服を纏ったカモメたち。黒いミルク。黒い塚。白く軽やかに。9月頃には課外発表の公演を予定しています。いくつか歌も書きました。今期の生徒さんは、三味線、サックス、クラリネット、篠笛など楽器を演奏する生徒が多く、いままでになく音楽的要素の多い作品になりそうです。


7月20日(日)「空にしずみ 海に浮かぶ」  蕨 タタミスタジオ   http://www.bfrec.com/tatamistudio.html

詳細   http://www.bfrec.com/pg157.html

おせわになっているタタミスタジオのエアロヨガ(空中ヨガ)の先生と生徒を中心としたダンス作品です。海や空を彷徨い旅する少年、少女たちの物語。

 朗読、演奏、歌もまじえつつ。演奏は小沢あきさん(ギター)、朗読者in川口の内田百?の「件」で私の無伴奏ヴァイオリン曲をたくさん弾いてくれたヤン・グレムボツキーさん。今回は、作曲は歌だけにして、マニュエル・デ・ファリャ、ショスタコビッチ、イザーイ、ユパンキ、ジスモンチなどの曲で音楽を構成する予定です。






石橋幸 ロシアアウトカーストの歌 

7月6日 (日)新宿 ガルガンチュア 7名限定 要予約

start 19:00  charge ¥2,000  ※要予約
石橋幸(vo) 小沢あき(g) 河崎純(b) 
@新宿ゴールデン街「ガルガンチュア」 
 東京都新宿区歌舞伎町1-1-7  TEL: 03-3202-5996

7月27日(日)(わたしが構成します) 西荻窪 音や金時

7時30分開演 ( 開場6時30分 )
    演奏
      石橋 幸 (うた)
      後藤ミホコ(acc)
      石塚俊明(per)
      小沢あき(g)
      服部将典(b)
      河崎純(b)
    是非ご来場ください。
    音や金時 → JR西荻窪 北口を線路沿いに新宿方向 徒歩で5分
  (土、日、祝日は快速通過、各駅停車をご利用ください)

    クリックして☞地図を見る
    ここをクリックして、音や金時
    杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1
    TEL: 03-5382-2020


7月29日 (火)新大久保ウルガ

open 19:00  start 19:30  前売.¥2500 (+1order) / 当日.¥3000 (+1order)
石橋幸(vo) 後藤ミホコ(acc) 石塚俊明(per) 小沢あき(g)河崎純(b)
新宿区 歌舞伎町 2-42-16 第2大滝ビル B1  Tel & Fax: 03-5287-3390  

構成演出する予定の、12月の紀伊国屋ホールでの公演に向けて、いよいよ具体的なアイデア、構成をためしつつ毎月のコンサートです。紀伊国屋ホールでは、信頼するコントラバス奏者服部将典さんを加え、私とのダブルコントラバスで、おおくりする予定です。読み人知らずのロシアの心は、コントラバスの響きと親和性がある、と思っています。それをより過剰に表現したい、と思いました。


RIQUO 「夜の対話」 外苑前 zimagine

7月22日

昨年毎月演奏した、リコさんのオリジナル曲シリーズ。一区切りのレコーディングを行い、久々です。楽しみ!

RIQUO(Vo,Pf)
OPEN19:00 START19:30 ¥2,500(ドリンク別)


UNI-MARCA

8月2日 渋谷 公園通りクラシックス

この4月にひさしぶりにコンサートをした柴田暦さんとのユニット。今回はあっとおどろくカヴァー曲も歌われるかもしれません!

ふたつの海物語 「道成寺」と「空にしずみ、海にうかぶ」

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 今週は、音楽や演出を担当した公演が二つあります。あらためて考えると二作品とも海にまつわる作品でした。擬死再生の観音浄土への渡海と、海を見たことがなかった少年や少女が海に向かう話。

 まずは「道成寺」。ひさしぶりにコントラバスで音楽つくりました。初めてご一緒させていただく、野口さん、文月さんの舞踊、豊かな方言井山さんの語り。舞踊の音楽の稽古にこれだけたくさん稽古に通ったのは久しぶりですが、本番に近づきぴったりと息があってきました。演奏がどんどん自由になります。そして、ずいぶんたくさん一緒に音楽劇をつくってきた今井さん。演出、劇作家と作曲家、音楽監督という立場で、たくさんの歌をつくってきましたが、コントラバスと小鼓や謡いでこれだけたっぷり共演するのは、20年近くの付き合いですがはじめてかもしれません。あっ、たしか20くらいの時、あるイヴェントでduoで演奏したことがあったはず。どこかにMDで録音したものが残っていたかも。いやはやそれから20年くらいだから私たちもゴキブリなみにしぶといです。お互いどこにも属さず、好き勝手にやって、いろんなところから、あーだのこーだのと言われながら(笑)。しかし、わたしのコントラバスソロ曲と、謡いや読経がこれだけ響きあうとやっぱり嬉しい気持ちになります。稽古の途中から、熊野、道成寺伝説に琉球が出てきた時はさすがに驚きました。今井マジック(笑)つくりはじめたときは思っても見なかったラスト!あはは。沖縄に行きたいなぁ、、。まったく新しい解釈の道成寺。

今井さんはこう書いてます

「道成寺という手垢にまみれた物語を客観的に捉え直す。
女の執心や、怒りは肉体を蛇に変化させ男を焼き殺す。
このドラマツルギーは誰のために、何のために産み出されたものなのだろう。
そこには中世の封建的な闇の世界を見出さずにはいられない。
新しい道成寺伝説の姿はそうではない、現代に生きる我々衆生の民にとって
真実の物語は何処にあるのだろう。
この度の上演では主催であり踊り手の野口さんと紀州を旅して新しい発見を物語りに書き留めた。
那智の滝の下、補陀落山寺で美しい千手観音を見た。
住職の話では補陀落渡海は擬死再生、命を懸けた修行であると。
修行僧はうつぼ舟と呼ばれる小さな舟に食料と水を積み込み、
釘で出口を塞ぎ、海上にある観音浄土を目指す。
そこは百花百村、色鮮やかな花が咲き乱れる楽園だと言う。
悩みや苦しみの多い此岸(現実世界)から、彼岸へと旅立つ補陀落渡海。
その前にはたまたま、沖縄を旅していて
久高島にイザイホーの祭りなど、女性の神官アマミキヨからヒミコなど、ユタやノロによる
古代日本の母性信仰のダイナミックさを読み取り、
黒潮によって、それらが本州の紀州熊野と繋がっていることがわかった。
自然観や信仰、世界観など日本の根源的なアイデンティティをそこに見出すことができた。

清姫は観音なのではないだろうか。
神なき世界に、観音はいるのだろうか。

母性信仰と基にした観音の知恵と慈悲は苦しむ衆生の魂を救済する。
至上の愛、道成寺の新しい世界をお楽しみください。」

本日は最後の稽古。

 
「道成寺」 もうひとつの物語・清姫の真実

ひめしゃら塾公演
7月15日(火)16日(水) 
@仙川駅 せんがわ劇場 http://www.sengawa-gekijo.jp/

演出・脚本 今井尋也
音楽 河崎純
踊り 野口祥子(シテ) 文月若(ワキ)
語り 井山順子


7月15日 19時 
7月16日 14時 19時 
予約3000円 当日 3500円 学生、こども 2000円
予約 kawasaki_jun6@r7.dion.ne.jp



 20日は、まったく異なる公演。エアロヨガ、アンチグラヴィティヨガをダンス作品として本格的に作品、パフォーマンス化する初の試みを演出します。少年・少女の見た海や、空の描写を言葉と音楽で描くなか、空中(それは空でもあり、海でもある場所)に身をまかせたパフォーマンスを目にする事で、少年・少女・海・空を感じ、いまここにいて、存在している生の根源と記憶を呼び戻すためのファンタジーです。それぞれが宙づりになったシルク一枚に戯れ、いつしかそれがダンスのようになってゆくさまは、遊ぶこと、創作することの原点をみる想いでした。夏の夜に涼しくて爽やかなパフォーマンスになりそう。でもだいぶ音楽隊は見た目暑苦しいかも(笑)

 音楽はギター、バイオリン、コントラバスの弦楽トリオで、いろいろな曲を演奏します。作曲は歌の部分だけです。自らでは選ばないようなテーマや設定でしたが、そういうときにこそ発見も多いものです。振り付けのアイコさんは、彼女が高校生だった頃、川崎市の多摩区民館での中高生のミュージカルの仕事からの付き合いです。もう15年くらい前かなぁ。出会った頃の河崎さんの歳を越えちゃいました、なんていっていたけれど。この物語の登場人物の一人、学校を抜け出して海に向かった「リュラビー」とアイコさんの姿を重ねながら、、。朗読の中川ゆかりさんもそういえば彼女が大学生の頃からの10年近くの付き合い。両国のシアターXでやっていた詩と音楽のゼミに参加してくれました。そして立教大学で私の難しい歌にたくさん、誠実にチャレンジしてくれている三木聖香さん。学校や地域やワークショップの仕事を通して出会ってきたひとたちと、こうして仕事ができるのは嬉しいものです。今回はヨガのパフォーマーはみな女性でした。そして、男たち!!今回もお世話になる、小沢あきさん。小沢さんが舞台稽古にきてくれたときの安心感といったらありません。超絶技巧のナイスガイ!ヴァイオリンのヤン・グレムボツキー。先日の朗読者in川口での内田百?「件」では、ヤンくんにはほぼ私のオリジナル曲を独奏で弾いてもらったので、一緒に演奏するのは今回が初めて。映像字幕でサポートしてくれた変態山田!(山田君がそこにいるだけで良い作品になりそうな気がしてくる)。そしてわがプロデューサーたむらさん。新しい試み、チャレンジングな試みで、なかなかたいへんな作業でしたが、地元蕨、気持ちのよいタタタミスタジオということもあり、みなさんのご協力で楽しくリラックスして作業することができました!本番までもう一歩。


2014年7月20日(日)

響きプロジェクトショーケース2014vol.0@ 蕨 タタミスタジオ  

詳細 http://www.bfrec.com/pg157.html

「空にしずみ、海にうかぶ」

作・演出、構成:河崎純
振付(コレオグラファー):アイコ
映像:山田泰士
朗読:中川ゆかり
プロデュース:たむらひろし(タタミスタジオ)

演奏:
小沢あき(ギター),ヤン・グレムボツキー(ヴァイオリン),
河崎純(コントラバス),三木聖香(声)


音楽監督に河崎純氏をむかえ
空と海にインスパイヤーされたテクストによる
エアロ・ヨガをダンス作品として発表致します。
この作品は、ル・クレジオのテキストから
少年・少女の見た海や、空の描写を言葉と音楽で描くなか、
空中(それは空でもあり、海でもある場所)に身をまかせた
パフォーマンスを目にする事で、少年・少女・海・空を感じ、
いまここにいて、存在している生の根源と記憶を
呼び戻すためのファンタジーです。

■日時:2014年7月20日(日)
 16:30開場、17:00開演、18:00終演予定、19:00まで交流会

■料金:投げ銭(ご協力ください)

■参加人数:限定30名まで(要予約)、
 残り3名となりました。(7/6)
 どなたでも参加できます。お誘いあわせください。

■出演者(予定)
エアロ・ヨガパフォーマー:
アイコ、本田カトリーヌ、鈴木貴子、堀江絵美、望月由美


 そういえば最近、海に入ってないなぁ。思えば、昨年の夏ヴォーカルのriquoさんとのライブでいった三浦海岸以来。ちょうど去年の今頃かな。本番前、吸い込まれるように独り夕暮れのほとんど人のいない浜辺で足までつかったつかの間の海。それでも水平線と夕空、夕凪の潮騒の感傷にも安らぎにもぎりぎり溶け込まないもどかしさ。いつも海のある風景を心の中で求めている。子供の頃から。海も河も小川すらそばにない環境でこれまで生きてきたことは、やっぱり不幸せなことだったと思う。大雨の後、草地にできる沼のような水たまりにだって興奮したものです。いまでも、港のある街へゆけばすぐに港にゆきたい。浜辺のある街にゆけばすぐに浜辺に行きたくなる。でもそうやって歩いていて音楽が頭に流れ出すと、なんとも無粋なものです。オーティス・レディングの「sit'in on the dock of bay~ ~」なんてまだよいけれど、いま思い浮かばないけれど必ず頭の中で鳴っている曲があるのですが、どうも、、たしかに好きな曲ではあるはずなんだけど、。さすがにマイク真木や広末涼子とか竹野内豊が頭のなかに浮かぶと、まさにもう潮時で、たしか三浦海岸でも実はそうだったかも。というわけで早々に引き返すというわけです。すると今度は好きな演歌が流れてきて酒ですかね。とほほ、、。私、自分の人生にBGMは必要としてないはずなんですが、。


 そんな私が作る舞台の音楽ぜひ聴いてください!お待ちしております!!

 先週の立教大学の今期の演習発表(チェーホフの「かもめ」とパウル・ツェランの詩「迫奏」)の演出と、今月は3つの舞台公演がありました。9月の音楽監督を担当している朗読者in川口の新作(小川洋子さんの「冷めない紅茶」を予定しています)の作曲(フルートとチェロ)と、立教大学の課外発表公演の台本作りもはじめました。そして12月の石橋幸紀伊国屋ホール公演の構成台本も作り始めました。10月にはリヒテンシュタインとドイツで「デデコルクト」の再演とレコーディング。どれも作品の内容も作られ方のプロセスも関わり方も環境も条件もまったく違って大変だけれど、いまの自分は、こうして創作しつづけていないと生きることが難しい。こうして創作に集中している時間のなんとありがたいこと。新しい共演者、古くからの仲間、遠い国の仲間たち、人生の大先輩、学生、、ほんとうにありがとう!自分の能力の許容量を越えていることは十分承知しているけれど、みなさまに助けられ、教えられながら、そしてお越しいただけるお客様に、良い時間、問いにあふれた時間をご提供できますよう、全力を尽くします!!ぜひ公演にお越しくださいませ。


 海に行きたい!学生たちが誘ってくれたバーベキュー、遠いの嫌だから私の住む近所の秋ヶ瀬公園を所望しましたが、せめて候補に挙がっていたお台場にすればよかったかなぁ、あはは。もう遅いな。お台場なんて遠いし、いくわけねぇじゃん、なんてあれほどしつこくいってしまったから。あはは。今年の夏は海に行けるのだろうか。しかし小舟で渡海する命がけ(というよりそれは現世での死を意味する)の修行なんてはじめて知りました。

 

不自由万歳?

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音楽を担当した「道成寺」と演出した「空にしずみ、海にうかぶ」の二つの公演無事終了しました。これほどタイプの異なる舞台公演が一週間のうち二作あったので大変でしたが、関わってくれたみなさまのおかげでとっても爽やかに気持ちよく終えることができました。そんな気持ちに比例してか、いつになく好評をえることができて嬉しい限りです。

uni-marca/ユニ・マルカ ライブ 8月2日
- 柴田暦 (vocal) -河崎純 (contrabass)

2014年8月2日(土)20:00start (19:15 open)
 at:公園通りクラシックス(080-6887-5957)
渋谷駅徒歩4分/AppleStore向かい/山手教会B1F
 http://k-classics.net/
charge:予約/2,700yen 当日/3,000yen
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真夏の夜は遅めのスタート。
土曜日だから、暑さがひいてから慌てずゆっくり出掛けてね。
サラリと軽く涼しげに。
夏らしいライブにするよ。
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ご予約は上記、公園通りクラシックスの電話、
サイト内予約ページ、または
talk.to.unimarca@gmail.com まで。

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uni-marca/ユニ・マルカ
英語と伊語による造語。「一商標」の意。
・uni[英語/接頭語]・・・一、単
・marca[伊語/名詞]・・・商標、会社名、印、マーク、ブランド

<ユニ・マルカ>基本情報、よろしければこちらでどうぞ
http://www.uni-marca.jp/
 
小さな喫茶店 (In einer kleinen Konditorei) 20140417

 
昨日は、8月2日のUni-Marcaライブのためのリハーサル。ヴォーカルの柴田暦さんとのこのユニットもずいぶん長い。もう15年近くだなぁ。ゆったりとマイペースに活動しています。ただ生きているだけでずいぶんいろいろなことを経験し、音楽や作品を作ることだけだって、ずいぶんと頭の中や身体の中にいろいろな経験や情報が蓄積されている。そしてこの現代の社会では情報と言えばかなり複雑かつ多様だから、そこに拘ったり囚われてしまっていることもあるわあけで、そういうことと上手くつきあって行くのはやはり難しいことです。

 Uni-Marcaのリハーサルでも、いつも「我々、さすが長くやってきているだけあるな」とかいって自画自賛したり、なかなか新しい曲の、答え、アレンジが見つけることができず、うなったり。いま書いたように経験や知識や情報が蓄積されている分難しくなっている、ということもあるのだと思います。

今日、リハーサル中ファイルから楽譜をさがしていたら、CDのライナーノートもかいてくださった音楽文芸批評家の小沼純一さんが、かつてコンサートのチラシに

「ユニ・マルカは歌とコントラバスだけの不自由さが魅力的。でも、不自由さを手放さずに自由を手に入れるには?」

という言葉を書いてくださり、さすがに上手に言い表してくださるものだ、と思いました。そう、そのために、ずいぶん工夫しましたし、新しい工夫もしています。不自由さを自由に転換してしまう発想はいつだって私が生きる、創作をする支えですが、自ら「不自由を手放さない」とはどういうことでしょうかねぇ。その余裕があるとか、マゾだといえばそうかもしれませんし、ただ、そこで、その状況で、不自由をきちんと認識して、地味に地道に「自由を手に入れようとした」あげくの小さな発見を信じることができ、それを大切にしたいから、「不自由を手放さない」のだと思います。自由と不自由を冷静に見極める必要があると思うのです。自分という存在から、社会の偏見から、いつだって自由になれる準備と工夫が、そこにはたくさんあったように思いました。もちろんソロでコントラバスを弾くことは、その発想の転換の宝庫ですが、同時にその自由さや自分の想いに、その分とらわれているともいえます。

 今回はあっとおどろくカヴァー曲もあります。久しぶりの曲もあります。ぜひみなさまみにきてくださいね!

 今日22日はRIQUOさん。RIQUOさんもいつもは、jazzやボサノヴァをピアノ弾き語りで個性的に歌うすばらしい歌手なのに、私とは一風変わったオリジナル。複雑な楽曲は、ソロやもっと適したアンサンブルもあるのでは、と思うこともあるけれど、duoを「不自由」な相手、私のコントラバスを選んでいます。27、29日は石橋幸さん。ロシアアウトカーストの唄。石橋幸さん(タンコさん)も、わざわざロシア語、異国の言葉で歌い続ける「不自由さ」に40年もこだわっている。だから、それを伝えるために工夫する。俳優で、日本語で語ることや歌うことは充分しっているのに。8月4日はダンスワークショップシリーズ。ずいぶん複雑な仕組みを用いています。参加しているダンサーの方々とってそれはやっぱり「不自由」なことだとおもいます。でもこの「不自由さの共有」が、「自由」を手に入れる前提だと思います。不自由万歳??

 先日12日のピアノ新井陽子さん、ギター秋山徹次さん、トロンボーン高橋保行さんとの即興演奏も面白かったです。新井さんは何度かご一緒させていただいてますが、秋山さん、高橋さん(10年くらい前私の作曲した曲を演奏してもらったことはあります)とは初めての即興。時々ご一緒させていただいてる方、10年ぶりに会う方、ほぼ初対面な方、たくさん稽古をしたり打ち合わせをする公演が多いので、即興の時はほんとうに音と身体だけになったよう。瞬間の出来事の生成の渦のどまんなかで意識的に自分が存在していることの厳しさや、よろこび、それらを意識する間もなく、常に一瞬先に転がり続けている。ただそこに音と身体がある。私は、いろいろな実際の音楽経験を積んだ後にではなくはじめから、20代はそういう即興でしか得られないような何かを求め、30代では、作曲をしたり、ワークショップ的なパフォーマンスアンサンブルを作ったり、即興をどのように人と「共有」できるのかという試行錯誤をしていたようにも思います。別のアングルや方法で即興という出来事をながめること。

 そして、こういう純度の高い即興は、やはり広くは「伝わり」にくいものだと思いました。そして、伝えたいし、分かち合えるものなら分かち合いたい。そのためには、やっぱり即興のライブをやることだけでは私には難しいのかもしれません。一つの美学に貫かれた作品やコンサートにも憧れますが、私はエンターテイメントとしてでも、自己探求としてでも、多様主義ということでもなく、即興に限らずですが、そのような音楽をすることの中にあるいろいろな喜びや苦難、私的なことも社会も歴史も、分かち合える場や作品を模索してゆきたいものだなぁ、と思いました。


 学生や種々のワークショップでいつも思うことは、この「不自由」に対して、とても柔軟に真摯に楽しみながら取り組むということ。私のワークショップや授業や作曲する曲は、どうも一般には、「複雑」で「難しい」ということだが、そう簡単に自由を求めたり獲得できたりするものではないし、不自由にしばられるのではなく、この不自由をいかに楽しむかを伝えること。学生は意外にもそういうことを楽しんでくれる、だからこちらはますます本気になる。ということで、課外発表のための作品の戯曲を書いてみました。シベリアの沿岸の街を、劇作家や作曲家や詩人の亡霊たちと、シベリアに流刑された囚人たちの子孫の物語、詩劇。シベリア、佐渡、東北、新潟、朝鮮半島、サハリン、東京を極東を彷徨う亡霊の魂。チェーホフの「かもめ 喜劇」とパウル・ツェランの詩をベースにした「交響曲第16番 かもめ 悲劇」!昨年の公演「ブレヒトオラトリオ」とともに、私のいろいろな活動のすべてがこめられた作品です。夏の稽古も楽しみです。公演は9月2日。王子シアターバビロンのほとりにて。

 なぜ、学生がこういうものに取り組むのかというと、単純に「授業料」を(多くな場合親が)既に払ってしまっているからなんですね。だから自分にとって価値のあるかどうかわからないものに対してけっこう気軽に入ってきて、そのなかで楽しみやよろこびをみつけてゆくわけですね。好奇心もあるし、社会的な探求も自己探求もどん欲です。だから、よく覚えるし、自主発表の夏の公演にも多くの学生が参加してくれるし、就職した卒業生も都合を付けて参加したりも。残念ながら、自分だったらそこまでできないなぁ、とか思ってしまいますからね、、。一般ではそうもいきません、やはり、なにものかわからないものに貴重な時間とお金をかけることが難しいからですね。そして、プロの慣れた表現者はもう自分なりの自由を知っているから、そういう「不自由さ」の面倒さにずいぶん戸惑います。ちょっと面倒なことを受け入れれば、ずいぶん楽しめるものなのですが、それが難しい状況であるのはたしか。生きていることだけで、生活することだけで面倒なことばかりですからね。工夫してなんとか広げて行きたいですね。楽しいですよ!


 音楽をするということは作曲したり演奏したりするこだけとではない。コントラバスを弾くということは、コントラバスを弾くということだけではない。表現をするということは作品をつくることだけではない。30代終わりの歳だからか、ずいぶん10年区切りで総括してしまいがちだけれど、次の10年は生きていられたら、そういう活動をもっと広げていきたいなぁ、と思いました。台本を書いたり、演出することも、私にとっては、音楽をしたり、コントラバスを弾くことと同じことです。生きていることすべてがそうです。それらのことはすべて、がむしゃらにコントラバスを弾いたり即興演奏した、初期衝動から受けたものを、分かち合いたいがためのものかもしれません。もっともっと音楽を!もっともっとコントラバスを!

7月22日

「夜の対話」 外苑前 zimagine http://www.radio-zipangu.com/zimagine/

昨年毎月演奏した、リコさんのオリジナル曲シリーズ。一区切りのレコーディングを行い、久々です。楽しみ!

RIQUO(Vo,Pf)
OPEN19:00 START19:30 ¥2,500(ドリンク別)

7月27日(日)(わたしが構成します) 西荻窪 音や金時

7時30分開演 ( 開場6時30分 )
    演奏
      石橋 幸 (うた)
      後藤ミホコ(acc)
      石塚俊明(per)
      小沢あき(g)
      服部将典(b)
      河崎純(b)
    是非ご来場ください。
    音や金時 → JR西荻窪 北口を線路沿いに新宿方向 徒歩で5分
  (土、日、祝日は快速通過、各駅停車をご利用ください)
 
    杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1
    TEL: 03-5382-2020

7月29日 (火)新大久保ウルガ

open 19:00  start 19:30  前売.¥2500 (+1order) / 当日.¥3000 (+1order)
石橋幸(vo) 後藤ミホコ(acc) 石塚俊明(per) 小沢あき(g)河崎純(b)
新宿区 歌舞伎町 2-42-16 第2大滝ビル B1  Tel & Fax: 03-5287-3390  

ダンス ワークショップ  神田楽道庵

7月7日 8月4日 9月1日  http://www2.plala.or.jp/rakudoan/

私のいろいろな活動では、歌でたとえると、ひとりで歌う歌と合唱の間にある出来事をとらえなおすような感じ、と自分で思っています。ダンスの活動はみなさんソロ活動がとても多いように思えます。さまざまな事情もあると思い、目の当たりにすれば、その自己探求にはいつも感服してしまいます。しかしちょっと遠目から見ると、そのインナートリップが少し、閉塞感、窮屈さを感じさせないでもない。このワークショップを通じて、振付けられた群舞や即興的な独舞とも異なる、ダンス作品を音楽家の視点で演出してみなさんと作品をつくりたいなぁ、と密かに目論んでいます。ダンサーじゃない方もたくさん来てくれると嬉しいなぁ。




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